骨折してから早4ヶ月、まだ本格的なリハビリはできないのですが、
かわりに毎日、雨が止んでいる時間を見つけて、買い物がてら、散歩をしています。


きのうは、隙があれば飛び出す彼ら、彼女らに注目。




どのひとらも、もう、たまらんです!



約3ヶ月、病院以外は一歩も外に出ないという状態で過ごしたのは、自分、生まれてはじめてのことなんじゃないかしら。

そのせいか、外に出るたびに、この何気ない風景や、ただまちを歩くということが、何かとても贅沢なことのように感じる。


きのうも歩いた同じ道でも、二度と同じ姿で目に映ることはないですもんね。



さて、今日は、個人セッションを受けてくださった方のご感想をアップしようと思います。

いままでクラスのご感想はアップしましたが、個人セッションの場合は結構パーソナルな内容が多いし、ご本人に直接返信するだけにとどめておいたのですが、
せっかくいただいたのだし、ほかの方が何か気づくきっかけにもなるかも、と思って、
掲載させていただくことにしました。


では早速、Aさんからのご感想です。



本日は、ありがとうございました!
やや緊張していましたが、お話を聴くうちにあぁ、私はこうだったと思いだすことができたように思います。

いつの間にかズレて勝手に苦しくなっていた自分が元の位置に浮上してきた感覚です。
誰かの、何かのせいにしたい自分になってしまっていました。

具合の悪くなる時はいつの間にかということが殆どですが、このタイミングでえずみんさんのリーディングを受けることができて良かったです。

えずみんさんユーモアがあって、ロックな感じがとても素敵!いわゆるスピリチュアルな感じではないのが私には良かったです。


今まで自分が自分のことを分からないことが何故なのかという疑問さえ持っていませんでした。
感情の解放がまだまだ必要なこと、世の中の常識に囚われずにいくこと。自分との信頼を厚くしていくこと。
自分が何を感じているか、みていく練習をしたいと思います。自分の本当の気持ちを常にキャッチできる自分に戻っていきたいです。

いただいたアドバイスをもとに、自分の可能性を拡げていきたいと思いました。

また、お願いすることがあるかもしれませんがその時はよろしくお願いいたします。
心からの感謝を込めて。


**********



「いつの間にかずれて苦しくなっていく」。

頭でいろいろ考えていると、数珠つなぎのように次から次へと展開していって、ふと気づくと、最初の思考、というか考えがはじまるできごとやきっかけとなった何かから、はるか遠い地点までいってたりしますよね、脳内で。


これが習慣になっていると、当然、自分から自分がどんどん離れていってしまう、もはや自分じゃなくなってしまったりする。

するともう、何がしたいのか、何を求めているのかなんて、わからなくなって当然なんですよね、だって、自分から遠く離れてしまってるんだから。


でも、気づいて戻ったらだいじょうぶ。

ハードルを上げてるしまっているのも自分だし。


「自分の可能性を拡げていく」。

ひとはよく、自分には才能がないとか言いますけど、才能ってなんなんですかね。

あったりなかったりするそれって?

できないかもしれない、でもできるかもしれない、その可能性はどのくらいあるだろう。


才能も可能性も、ほんとは持ったり所有できる何かではなくて、
人間そのものだと思うんですよね。


可能性というものがあるのではなくて、自分が可能性、それ自体。

そして自分を生きる才能は、最初からある機能だと思うんです。

何も考えなくても呼吸が起こり、心臓が動き、血液やリンパ液が勝手に流れるのと同じように。


というわけで、Aさん、ありがとうございました!


それでは今日はこのへんで。










ここ最近、うちの地域は風がものすごく強くて、

今朝はベランダのニチニッチー(日々草)が2落ちていたので救出。



小さめの花や葉っぱはだいたいこの茶器に入ってもらうんですけど、
去年の5月末はこんな感じ。




続々落ちるので、ちょっとずつ増えていって茶器が見えなくなるくらい。

日々草の花が落ちるのは終わったからそうですが、水に浮かべるとしばらくそのまま咲いているのでうれしい。


植物がないとだめ、というひと、たくさんいると思いますが、自分もほんとだめです、無理。


たとえば食べもののことで、よく四つ足は食べないとか、かわいそうとか、痛がるからとか不浄とかなんかいろいろな理由で肉を食べないというのがあると思うんですけど、
じゃあ魚は? 野菜は? という不毛な議論が交わされたりするじゃないですか。


そんなこと言ったら野菜って名付けてるけどグループとしては植物ですよね、植物って知性があるよ? 生きてるよ? 

このケースはいいけどこれはだめ、って、なんで? 誰が決めたの? って。


結局、 “頭” で考えて判断することって、反対のことが出てくる。

なぜなら、全員にとっての “正解” はないから。

人間だけじゃなく、生きものは、ほかの生きものを食べて生きる。

なんかいいひとっぽくきれいごとな感じでいやですけども、みんなほかのいのちをもらって生は紡がれる。循環していく。でしょ?


食べもののことって(食べものだけじゃないけど)、難しい。

ほんと、一概にこうとはいえないですよね。




と、話は変わりますが、

きのうアップした花の名前、早速お二人からメールが!


名前は「パッションフラワー」「パッシフローラ」「トケイソウ(時計草)」


いや、最初トケイソウに似てるなと思ったんですよ、でもわたしが知ってるトケイソウってこれで、


wikipediaより拝借)


まさかつる性とは思わなかったんですよね、こう結構太めの茎で土からすっと伸びてるイメージで。


メールをくださったひとりの方は、ホメオパシーのレメディにもなっていると教えてくださったのですが、

実は神経過敏や興奮で眠れないとき、睡眠のリズムを整えるなどの目的で、自分でもときどきとっているもの。



「もっと、ゆったりいきたいね」




そして、もうひとりの方は、ペガサス・エッセンスにあったと教えてくださいました。


https://www.pegasusproducts.com/shop/flower-essences/passion-flower-passiflora-incarnata-christ-consciousness/


ペガサス・エッセンスは、キリスト意識にフォーカスされていて、ホメオパシーのレメディはもっとボディ、人間の実生活、というか、それぞれコンセプトや作成方法はまたちがった在り方ですが、

どちらもひとつの花がもつ異なる領域、レイヤーで捉えているのがとても面白いなと感じます。


で、このことは、宇宙というものの全体の構造をあらわしてると思うんですよね。

自分がアセンデッドマスター等の存在とのコンタクトの見直し、みたいなことをしようと思ったのも、これと同じこと。


って、また話が変わってしまうので、このことは機会があれば!


パッションフラワーのエッセンス、ご存知の方もいると思いますが、ほかにも出てるので、くらべてみるのも面白いですよね。



それにしてもほんと植物ってすごい。

ずっとおんなじ場所で刻々と姿を変えおんなじ種類なのにけしておんなじじゃない。


もしもまたクラスみたいなことをする機会があったら、今度は外でやりたいなーと頭のなかで計画してます。

植物だけじゃないですけど、今回のこのパッションフラワー、完全に自分はメッセージとして受け取ってます。

自分に必要な情報って、ほんとにどこからでもやってくるから。


これを読んでくださっている方のなかに、この花やエッセンス、レメディのメッセージに何か感じるものがあったら、みてみるといいと思います!



そんなわけで、名前を教えてくださったお二人、

ありがとうございました! おかげさまでスッキリしました(笑)。



そして、今日は植物、自然みたいな話を書きましたけど、雨の被害でたいへんな状況になっている地域があるとのこと。

具体的なことができませんが、どうぞお気をつけて。


それから東京都民の方、明日7月5日は都知事選。

候補者の方のお顔、ふるまい、仕草など、よく吟味、あるいは直感でみて、
ぜひ投票に行きましょう。


スピリチュアル、みたいなことに寄りすぎませんように。

わたしたち、食べて、生きて、税金などを払って、といった人間の暮らしのサイクルがありますもんね。








おかげさまで、骨折もだいぶ回復。

最近は、折れた場所のまわりの筋肉が固まらないように(すでにそこそこ固まってしまってますが)、雨が降っていない時間はなるべく散歩に出かけるようにしています。


今日は午前中に、郵便を出しつつひさしぶりに本を借りに図書館へ。

やっぱりいいですなー図書館。読みたい本がいっぱい(家には積ん読本もいっぱいだけど)。

ひともまばらで、自動貸出機やPCがちょっと増えたような?

館内全体がなんとなくきれいになった気もするし、ストレスなく回れてよかったです。


いまは片方だけ松葉杖をついて、一歩一歩確かめながら歩くんですけど、道ってこんなにでこぼこしてたり曲がっていたり、思いがけないものが落ちていたり、

骨折前の移動はほぼ自転車だったこともあって、きょろきょろしてしまう。


今日はやたらとつる科の植物が目について、なかでもこれ。




近づいてみると、すごいかたち。


からすうりの仲間ですかね、ほんとは夜だけに咲くグループの花だったら夜に見たい、たぶん昼よりもすごいはず(どなたか、名前を知っていたら教えてください)。


いつも通りの風景に慣れてしまうと、その道や場所はいつの間にかひとつのかたまりみたいに整理されてしまって、振り返ることもなく、いろいろなものを見落としてしまう。

ゆっくり見てまわること、自分にとってはすごく新鮮で、大切だし、何より発見があって楽しいです。



ゆっくり見てまわること、といえば、骨折してから、自分や世界、領域のことをいままでとはまた違う視点でみるようになりました。

まあ、いまにはじまったことではないんでしょうけど、足が折れてからは、さらにひろがってると感じる。


特にからだのこと。

先日も書きましたけど、からだを動かすことが苦手、嫌い、というのは実は自分の思い込みだったのではないかという気づき。


先日、また別の方とのセッション中にインナーチャイルドの話になり、自分の経験を拾いつつお話しているとき、ふと、3年くらい前に出てきたわたしのインナーチャイルドのことで、思い出したことがあったんです。


そのチャイルドは発見当時、幼稚園か小学生の低学年くらいで、すぐには統合できず、ゆっくり時間をかけて見ていったのですが、

その過程で、何かやりたいことがあるかどうか聞いてみると「テニスがやりたい」とかえってきたんです。


なるほどテニスかー、確かにむかし憧れたよなースコート履きたかったよなーあのボールがラケットに当たる音いいんだよねーあーやりたかったなーでも諦めたよねーなぜなら「自分には無理だから」。


そのときインナーチャイルドには、思う存分やったらいいよ! と、イメージの中でラケットやユニフォームをあげて、コートに送り出して終わったのですが、

先日、そのことをひさしぶりに思い出して、ちょっと愕然。


「テニスをやりたかった」というインナーチャイルドの思い、
つまりこども時代の体験、感情、記憶、エネルギーが、何十年かの時を経ても残ってるって、そのくらい強いものだったわけですよね。

それは、そのくらいテニスがやりたかった、というよりも、諦めるという体験、それも、やってみる前に無理だから、と決意したことがつらかったんだと気づいたんです。


もしも自分が運動が苦手、からだを動かすことは無理って思っていなかったら、
あのときどうしていたんだろう。

いまはもうテニスをやりたいとは思わないけれど、

こどものころ、可能性というものを体験をもって確かめることができずに諦めていくというのは、もしかしたら大人のそれよりもつらい、

というより、何か寂しかったんじゃないかなと思った。


ほかの人が同じ思いを持つのかどうかはわからないけれど、
こどものときのわたしは。



******


いろいろなことは、重ねていくといつしか慣れてしまう、特にあまりよくないことは。

自分はそうだと、世界はそういうものだと決めてしまう。


諦めてしまうことに、慣れないでください。

いつから信じることが難しくなってしまったんでしょう。


思い出してみてください。

わざわざ信じる、という決意すらすることなく、

また信じる、なんて思う隙もなくただただ目の前の体験、それ自体となって楽しみ、
よろこび、集中していたときのこと、


そのとき時間はありませんでした。

ただ、それそのものになっていた、

自分さえもそこにはいませんでした。


それ、そのものになって、軽やかに、ただただ動き、流れ、移り変わって。



********



急にメッセージがやって来たので、書いておきます。










いま水星が逆行中なんですよね。

いつもはなんか連絡がうまくいかないとか返信が遅いとかでもしや? と思って調べるくらいで、最初から調べておくことはしないんですけど、

先々週くらいにセッションを受けてくださった方からちょうど水星の逆行に入ると教えていただき、めずらしく、ちょっと意識しながら過ごしています。


で、そういえば前にこのブログにも逆行のこと書いたなと思い出し、今回はどんな感じかちょっと書いてみることにしました。


前回も書いたかもですけど、わたしは水星の逆行って嫌いじゃないんですよね、電気機器の危機とか連絡遅れたりとか、そうなったらそうなったで仕方ないというか、まあそれで命をとられるわけではないし、
これは逆行に限ったことじゃないですけど、起こることはどうあっても起こるわけで、起こったら起こったでしょうがないじゃん! と。


じたばたしたってしょうがないし、と、“頭でわかっていても” じたばたしてしまうこともあるし、そしたらひとしきりじたばたしたらいいし、結局そのじたばたもいつかは止まるし、そうやってすべては移り変わっていくわけで。



と、話がちょっとそれたので水星の逆行の特性のことをみてみると、
やっぱり過去の何かの浮上ですよね、これが醍醐味だとわたしは思ってるんですけど、

これってまさに振り返りチャンスじゃないですか、この波に乗っていろいろみていったらほんと玉手箱、いやびっくり箱かもですけど、いろいろ出てきて、うわ〜〜ですよ!


で、今回のわたしの収穫は、といってもまだあと半分くらいあるので中間発表ですけど、
もしかして、自分は身体を動かすことが苦手じゃないのかも? 実は運動神経悪くなかったんじゃね?? という、
自分にとってある意味青春がそこそこひっくり返るかもしれないような気づき。



わたしはこどものころから運動が苦手で、というのは、鉄棒とか登り棒があんまりうまくないとか、かいせんとうやマット運動で目が回ってしまうとか、跳び箱あんまり飛べないとか、かけっこも速くないとか、

とにかくいい成績もとれないし、自分は運動はだめなんだとずーっと思ってたんですね。

というか、自分=運動だめ。

そこについて振り返ることも疑うこともしないで生きてきたのです。


でもね、ちょうど先週くらいにセッションを受けてくださった方とからだの話をしているうちに、おや? でも自分、サッカーもソフトボールも好きだったし、選択授業で仕方なくやったバドミントンで、いっつも練習さぼってたのに試合で準決勝までいったよなとか、

バレーボールも自分のサーブで連続点数入ってたなとか、それに、ドッジボールでいつも最後まで当たらなかったのって、むしろ反射神経がよかったからじゃね? とか、

かけっこも短距離はだめだったけど、リレーや長距離、悪くなかったよなとか、そういえば幅跳びもそう悪くなかったし、高跳びはわりと跳べてたな、とか、
もう何十年も忘れていたことを思い出したんですよね。

そして、自分は運動神経がないと思ってたことでやらなかったこと、実は結構あるかも、と。


もっといえば、運動神経がない、からだを動かすことをしてもどうせできなくて嫌な気持ちになるだけ等々、
これも結局思い込みだったとしたら、、、と、
やってもだめだと途中で諦めてきたいくつかのことが浮かんできたんです。



よく、自分は苦手だからやらない、できないとおっしゃるひとがいます。
でも、もしかしたら、その「苦手」という “判断” こそが間違っているかもしれない。

苦手の背後にあるものをみてみたら、実はそれに気づくこと自体が大きなギフトかもしれない。

なぜなら、苦手と感じていることって、そう感じる理由があるから。

そこに気づいたら、自分は何を選んでいくのか。



別に、水星の逆行にかこつけなくてもいいし、いつ気づいたっていい、
それに、ほんとにそのせいかどうかなんてわからないですよ、だって検証のしようがないんだから。

でも、せっかくそんな意味をもつ動きが起こっているのなら、これは思い込みを外してほんとのことを知るキャンペーン期間だなと思うんですよね^^



実際、この時期にセッションさせていただいていて面白いのは、いかに現状に抵抗しているか、この抵抗に気づいて受け容れていこうとする方が多い気がする。

そこがゆるむとするするいろいろ解けていく、解けていかざるを得ないから。



もしかしたら、いまの自分を受け容れることのほうが、過去を振り返ることよりも難しいんじゃないかと思う。だから、振り返りたくないんじゃないんですかね。


だって、もしもいままでのことをみていったら、後悔とか罪悪感とか見たくないものとか、全部なだれ込んでくるもんね、いまの自分に。



結局のところ、いま、自分がいる場所、状況を受け容れていくことなんだと思うんです。

いつでも、ここからしかはじめられないし、

逆にいえば、いつだってここからはじめられる。


振り返ることや自分を見ていくことって、
自分の思い出したくないこと、見たくないこと、なかったことにしたいことを掘り起こすわけじゃなくて、

“ほんとに起こっていたこと” を知ること、

そしてそれは、必ずいまの自分にとってのギフトとして受け取れるものなのだと思います。



そんなわけで、やってもどうせ〜だから、とか、これはこういうもの、と、「自分は知ってるわかっている」という“頭の考え” は華麗にスルーして、

はじめて知ることのように、自分を振り返ってみるのはどうでしょう。


そう、振り返るのは、別に時間としての “過去” ではないんですよね^^








先日、寝る前に、ああ今年ももうすぐ終わりだなあ、と呟いて、いやいやいま6月だよ! と、自分でつっこみを入れ、なんでそんな気分になったのかと思ったら日曜日が夏至だったことに気づき、しかも日食とのこと。


切り替わり感はこれだったのかな? と、そのままボディスキャンなどをして、いつもならすぐに寝落ちでぐーすかいってしまうのにその晩は寝られず、なんでかなーと辿っていくと、ああそういえば去年はちょうどエジプトにいたんだなと。

ちょうど骨折とコロナのまさに “Stay HOME” 期間に、ようやく自分がエジプトに行った意味がわかりはじめた、というかいろいろつながってきたなと感じていたので、ひさびさにピラミッドやその関連にアクセスしてみると、これまでとは違うかたちでのコミュニケートというか情報の届き方。

これ、どうやればいいんだ? と探りつつ最初はちょっと慣れなかったのですが、なるほど、と頷くことも有り、まあまた必要があれば行くし、どうあってもこころが動かなければ自分の感覚にしたがうし、で、さて今度こそ寝ようと思ったもののまだ眠れず。

まだ何かあるのかい? と、そろそろメルカリにでも出そうかと思っていた「エメラルドタブレット」を1年ぶりに取り出して、適当にぱっと開いたページを読んでみると、うーん、という感じ。

今後、このことについて探求するかどうかはまた考えよう、と閉じたところでやっと眠ることができました。


わたしがはじめて自覚的にピラミッドにアクセスしたのは5、6年前で(こどものころから予兆はあったものの)、そのときに「なるべく早く来るように」と言われたのですが、あのときにみたこと、言われたことのすべては、去年実際に行ったときには体験できませんでした。


去年、自分はなんでエジプトに行く必要があるのか、もちろん情報はいくつかあったけれど、それは本質的なことではなくあくまでも情報に過ぎないし、本当の理由は正直よくわかっていなくて、

ただ何かすごいパワーやヒーリングのエネルギーみたいなものを貰うためとか、宇宙人の何かを知るためとかではないことはわかっていたので、より何故なんだろう? と思ってたんですよね。


で、それが最近になって思いがけない方向とつながり、でもそれはもともと自分が知りたかったこと、望んでいたことで、だから余計にびっくりしたんですけど、

その晩の情報とそれがどう結びついていくのか、今後わかってくるんだろうし、まあ別にわからなくてもいいやごはん美味しいし、この前の大葉はもう24名も芽を出したしなんかわかんないけど最近なんもしてないのに楽しいし、、

という感じの今年の夏至の自分です☆



去年のエジプトではいくつかの印象的な体験をしましたけど、その中で、自分にとってもっとも大きくて重要だったのは、ひとりでいるときに聞いたトートの言葉と、自分が鳥の目になってしまうという体験をさせてくれたホルスからのギフトでした。


このホルスの鳥の目は、全然理由がわからなくて、先々月くらいにこのブログにも書きましたが、夢の中で目だけになってしまうという体験、これもそのときはエジプトでの鳥の目のこととつながってるとは気づかず、
ほんとに最近理解できたことでした。



と、これからセッションなので、自分の理解のためにもエジプトのことは後日また。


そうそう、最近セッションを受けてくださった方たちの理解の深まりや気づきの度合いが、ほんとすごいなーと感じることが続いていて、人間やっぱりすごいしまだ自分、この仕事を続けていってもいいのかなと思ったりしてます。



というわけで、また。

せっかくなので、ホルス氏載せときます。


あと、先日ひさしぶりにコンタクトしたスフィンクス氏。このひとはほんとにやさしいね。
できることならハグしたいです。




以前、目に見えないものについて書く、と書いてから、書かなきゃと思いつつも、なかなか難しく。

それは骨折やらコロナウィルスの関連で起こってきた日々の自分のことでいっぱいだったことと、
同時に、書こうと思ったあのときから意識が変化していったこと、いざ書く段になると、このブログの枠で簡単に書き切れるものではないよね、ということなどなど。

そして、あの時点でもまだ疑問に思っていたことや、どう説明したらいいのだろうと思うこともあって、書くという行為とともに理解が起こるのではないか、そして書くと宣言しないときっと書かずに終わるだろうと、有言実行をねらったわけなのですが、そううまくはいきませんでしたね(笑)。


で、先日引き寄せのことをちょっと書いた勢いで、あのあと、とりあえず書いてはみたんですけど、こんなことをわざわざ書き伝えたいんだろうか、自分がやりたいのってこういう方向なんだっけ? 等々思うことがあり、

そのまま自分をみていくうちに、不要な思考がまだまだあるのはわかってるけど実は死角みたいになってた信念というかポリシーみたくなってるやつ、これ自体が最もいらないものなのでは?? と気づいて、とりあえずアップするのを中止、
急遽30年来の親友とスカイプして、ほぼわたしがインタビューする感じで彼女自身のことを聞きまくったり。



その親友は以前、メジャーな音楽雑誌のカメラマンなどをしていたのですが、あるときから写真をやめて表立った活動もしなくなっていたんですけど、一昨年くらいに一緒にごはんを食べているときに、突然、実は最近、また写真をやり出したと、しかも名前を変えてある作品展で入賞したり、zineを作って無料でお店に置いている、絶対に自分だとわからないように活動してると聞いてびっくり。旦那にも話していないとのこと。

しかも去年の末には、世界の誰もが知っている某ハイブランドから声がかかったのにも関わらずスルー、スピリチュアルとかには興味がないひとなのですが、あんた自身が神秘だよ! という感じで、
彼女が自分のそうした活動をどう捉えているのか、なぜ仕事としてやらないのか等、質問してみたのでした。


結局、彼女のこたえから直接的に何か得たりはしなかったんですけど、きのう1日、では自分はどうなんだろうかとどんどん突き詰めていって、

やはりこの考えいらない、この思いもいらない、この感情を生んでる思考いらない、すると、書いたブログの内容について、やっぱりどうでもいいなこんなこと、

そんなことよりみんないま目の前のことに集中して自分自身に興味を持って、いまの自分を楽しんだらいいそれだけだよそれがすべてだよと思い、

おなかも空いたのでカレーを食べて、インターネットの番組表を開いたら、たまたま「ブラックホールは実在するか」という番組がやっていたのでみてみたんです(ここまで長いね笑)。



今年のはじめか、いつか忘れましたけど、ブラックホールについての新しい記事をみた気がするんですけど(初めて撮影に成功したというやつだったかも?)、その番組は特に新説みたいな話ではなく、完全に実在するとは言えないし、ないとも言えない、その理由について数名の科学者がそれぞれ語るという内容でした。


で、面白かったのは、相対性理論でも量子論でも説明できず、その両方を統合するという方向で研究を進めているのだが、現状では統合はできないと、つまりパラドックスなんだという話。


それでも科学は、これはこのようにして成り立っている、と、一つのことに帰結させて証明しなくてはならない。それも、相対性理論も量子論、その両方で別のことが証明されている以上、それらも同時に成立させた理論で証明しなければならないと。

で、少なくともいまはできないが自分はこう思う、と、それぞれがいろいろな説(地球や惑星が逆にブラックホールの中に存在しているとか、ホーキング博士のブラックホールには毛が生えてる説とか、そもそもブラックホール自体存在しないとか、証明できないけど存在してるとか)を繰り出してくるわけですが、

全員一致で言えることは、とにかくわからないんだと、わたしには、何かそれがすがすがしく見えたんです。

そのわからなさを認めて、受け容れている姿が。


で、自分がとりあえず書いてみた目に見えないことについてのことって、まさにこれだよなあと。

もちろん、ブラックホールを証明するような壮大な何かを提示しようとしているわけでも(笑)できるわけでもまったくないですけど、

結局、パラドックスなんですよね、そしてわたしたちの知覚では、エゴやマインドを納得させられる証明ができない。


なぜなら、目に見えないものって、この三次元の物質空間としての知覚では知覚できないものだから。

たとえブラックホールの存在が科学的に証明できたとしても、地球や別の惑星を肉眼で見たり、着陸して感じたりするようには体験できないんですね、そこにもパラドックスがある。

でも、この視点でいけば、自分なりの捉え方が書けるかもしれないと思った。



そして、パラドックスもまた概念なんです。

それは、すべてのことは白か黒か、のように割り切れるもの、これはこういうものだと断定、つまり物質として、あるいは五感として経験できるものが真実、
という考えがわたしたちの基盤になっているから。

そこから漏れているものは存在しない、という考え。


それを証明しようとするのが科学というものですよね。
科学のすごいところは、存在しないことも証明しなくては科学ではないということ。

そういう意味で、わたしはすごくいいなと思う。

科学で証明できないから存在しない、って言うひと、すごく多いですけど、いやいや、存在しないことも証明できてないから!  



ちょっと余談になるかもですが、
ときどきわたしは普通ですねとか、もっとトランスに入ったりしてすごいことになるのかと思ってましたとか言われることがあるのですが、

ほんとの意味でのスピリチュアルってそういうことではないと思うし、

そもそも知覚できないことは、どれだけ考えようが調べようがその知覚内ではできないわけで、

それを理解して受け入れない限り、ほんとのことって見えてこないと自分は思ってるみたいです(へんな言い方ですけど)。


過去生や未来の情報を得ることや、天使やアセンデッドマスターとつながること、死者や宇宙人とコンタクトすることは、スピリチュアルというものの本質ではなく、ひとつのあらわれなんですよね。

不思議な体験とか、それこそトランスに入ったり光やすごい色をみたり圧倒的な喜びに包まれるというような神秘体験もまた。


それが本質だとして追いかけたり、全能感をもったり盲信したりすると、カルトのようになってしまうんだと思います。自分ではまったくそういうつもりはなくても。

というか、自覚がないからこそですね。



って、なんだかんだいって、ざっくりですけど、自分が言いたかったことが書けた気がします^^

もう少し仔細に書きたくなったら、また後日書いてみます。


では、いい感じの日曜日を❤️











今日、友だちからおしゃれマスクと大葉の種が届き、先ほど大家さんの奥さんが、ガスの警報機を取り換えるための日程確認のついでに、足の様子を見に来てくださり、いろいろ話していると、突然ちょっと待ってて、と、後からお餅とびわ、味付け海苔やジンジャーエールなどを持って来てくださいました。




最近セッションを受けてくださった方の何人かにはお話ししたんですけど、実は先月くらいに急にお餅が食べたくなり、でもお正月じゃないしなあ、どっちにしても自分で買いに行けないし、と思っていたら、翌日大家さんの奥さんにいただいたわけなんですが、

昨夜、お餅と枝豆とチーズを一緒にフライパンで焼いて、ちょっとお醤油を垂らしたりしたら絶対に美味しいよな、、と考えていたところ、先ほど再度お餅をゲット、わたしの夢が叶うこととなりました(笑)。


そしてびわ、実はこれも今朝、納豆がそろそろなくなるのでネットスーパーで注文しようと思ったときに、ああ果物が食べたい、でもいまの時期、ネットスーパーでは防腐剤たっぷりのオレンジとか旬を過ぎて高くなってしまったりんごくらいしか買えず、いまの旬ってなんだっけ、ああびわだよね、びわ食べたいなーでも今年は無理かな、と思っていたところにやって来てくれたのでした。


その他、生体エネルギーを自分で測るデバイスで、最近ビタミンKが圧倒的に必要と出ていて、おそらく骨折に関連してるんだと思いますが、もう実際に肉体として摂取したほうがいいなと、これも今朝ネットで食品を調べると、納豆や海藻類が挙がっていて、納豆は朝の定番で毎日食べてるし、確かに前々回の注文以降、わかめも海苔も切れたままだったわ、と思っていたところに登場(味付けではありましたが笑)。


写真には写っていないジンジャーエールについては、これがまた面白いんですけど、ネットスーパーのトップ画面にジンジャーエールが出ていて、飲みたい気もするけどまあいいか、と思っていたところでした。



一時期、引き寄せの法則が流行りましたが、もともと、小さい頃から今回みたいな食べものなど物理的なものだけでなく、お金やパートナー、知りたいことなどの情報もひんぱんにやって来ていたので、一連の本を読んで、なるほど、といろいろ納得することはあったものの、わたしの場合は本の通りに実践しようとすると、逆にできなくなったんです。


その理由をいろいろ紐解いていくと、結局のところ、こうしたやり方をすればいいのだ、と、プロセスをエゴ/マインドが設定してしまうからだと思うんですね。


その根底にあるのはやはり、「何かを得るためには何かをしなくてはいけない」という思考、もっといえば「得る」とか 「達成」という “概念” を信じているからだと思うんです。


そんなの当たり前なのでは? と思うかもですが、本当に起こってることはそうではなくて、そもそも、引き寄せ、という言葉というか概念自体が違う気がするんですね。

これはわたしの感覚ですけれども、どこかに存在するものを自分に引き寄せて手に入れるのではなくて、それは発生するんですよね、プロセスは後付けなんです。得ようとする必要が最初からない。


なぜプロセスは後付けかといえば、そこには時間が関連しているからで、つまり時間の概念を外してしまうとプロセス自体は無効にならざるを得ない、逆にいえば、時間の概念の採用によってプロセスが発生するわけなんです。



あんまり書くとエゴ/マインドがまたかっさらっていくのでやめておきますが、あえて“コツ” を書くとすると、自分とその対象との関係がニュートラルであることですかね。


でも、この時間の概念を外すと、ほんとにすべてが変わります、変わらざるを得ない。

まず過去、現在、未来、という一連のストーリーも消えてしまいます。
〇〇だから△△、が完全に成り立たないことがわかります。

何もせずに自由☆


ちなみに、おしゃれマスクと大葉の種は、先日オンラインお茶会のときに友人が余ってるから送る、と言ってくれて、わたしの中の何がそれを発生させたのかは不明ですが(笑)、

そうしたことを気にするのは典型的なエゴの働き(つまり理由、プロセスがはっきりしないと認めないという思考)で、この世界、この宇宙の無限のあらわれを限定すること、もっといえばすべて知っていなければならない、まさに辻褄、プロセス=時間を採用することで、本当に起こっていることとは対局の思考なんですよね。


で、さらにいうと、探せばその理由も発生するわけです。



しかしわたしたち人間は、ほんとにプロセスが好き、正誤が好き、善悪が好きだよなあと思います。

もちろん、好きなわけじゃなく、そういうものだと振り返る発想もなく生きてるだけなのですが。


というわけで、お餅食べます☆






















最近、セッションをしていて、ホルモンのバランスに影響のある方が多いなと感じています。

そもそも自分自身が気温も湿度も高くなってきて、いつも以上にバランスが崩れ安くなってるなと感じていて、けれどもこれは、季節的なことが直接的な原因ではなく、根本要因はやはりほかにありますよね。


もちろん、女性の肉体的な経過による影響はありますが、これもまた根本というわけではないし、女のひとだけでなく、男のひともまた然り。

特に感じるのは第2チャクラと第3チャクラについての諸々が浮上してきている感じを多く受けます。


チャクラというと、だいたい注目されるのは第6,7や、ハート、そしてルートに第5かなと思うんですが(順不同)、これは自分の感覚ですけど、実は第6ってわりとやりやすく、第2、3のほうが抜けにくい気がするんですよね。

第5もなかなかですが、体感を得られやすい分、自覚はしやすいというか。第7も感覚としては捉えやすい気がする。


ちなみにルートはほかのチャクラとは少しちがい、ハートはまたさらにちがって、こちらはある意味、別の時空間に位置するみたいな感覚がします(わたしの感覚としてですが)。


で、いまやはり注目すべき、というか、上がってきてるのが第2、3あたり、つまり男性性女性性もさることながらジェンダーとしてのそれもそうだし、自尊心、生存のことですね。


男性性女性性っていうと、なんか観念的概念的になってしまって、ちょっと遠く捉えてしまいがちな気もしてるんですが、受け容れることと与えることのバランスもそうだし、左脳右脳的行動のこともそうだし、ジェンダーについて、これも実はとても大きい。


たとえばセクシャリティーのこと。

いま全体的に向かっているのって融合、統合、一つ、なんでもいいですけど、分離グッバイだと思うんですね、となると、まずあたしらは人間としてそこどうなんだと。


そして、いまにはじまったことではないにしろ、さまざまなところで支配被支配闘争が繰り広げられているわけですけれども、ここにもとても大きく関わっている。


自尊心って、そもそもなんなのか、これは自己愛というものにも関連すると思いますが、たとえば本来のパワーが、自分と自分以外を分けるための力というものにすり替わってしまったりする。

これは社会の中とかでよく見られると思うんですけど、ヒーリング、スピリチュアルの世界でもよく感じますよね。


自分のパワーを証明したいという思い、これは癒し、愛とは対局にあるものですよね。
そして、本来の自尊心ではまったくない。


けれど、無意識にそう捉えてしまい、行動してしまうのには、そうした思考と一体化してしまうだけの経験があるからなんですよね。

つまり、そう考えなければ生きられない、存在できないという結論に至った何かが。



癒すことや解放することって、何か難しく、複雑なやり方をしなければできないわけではまったくないんです。

正直、別に過去生やらほかの何かまでさかのぼる必要も本当にはないんですね。


ちょっとやってみましょうか。


ひとりで静かになれる場所で、ちょっと目を閉じて、自分の2番目のチャクラ、

もしくは3番目のチャクラのあたりに、こころの目を向けてみてください。やさしく。

そこには、何かがあります。いるのかもしれません。

ただやさしい眼差しを向けるだけでじゅうぶんです。

そして、もしもその何かが声を持っていたら、ぜひ聞いてみてあげてください。


※感情が湧き上がってきたら、湧き上がるままにしてみてください。

※どうしようもなくつらかったら、少し寄り添ってあげてから、そっと離れてください。

ENERGY STANDのシャワーや木のエネルギーがサポートになると思うので、どんどん使ってください。



これはこういうものだから、なんて決まっていることは何ひとつありません。
自分はこうだから、それは無限の中のひとつのストーリーにすぎません。

その考えこそ、いらないですね (´∀`)/イラナイヨ~
















骨折から3ヶ月経ち、先週から両足で歩く練習をはじめています。

まだ骨が完全にくっついていないので行動は制限されているものの、だいぶ楽になっています。


骨折直後からセッションのお申し込みもしばらくぴたりと止まり、安心して療養に専念できたし、回復につれてまた少しずつ増えてきて、うまくできてるなーと思ったり。


ほんとはGWあたりにオンラインでワークショップをやろうかと思っていたのですが、いろいろ組み立てていく間に、別の視点や時空間で自分をみていくということが起こり、いまは外に向けるより自分、と、ワークショップについてはとりあえず見送り。

そのおかげで、どんどんシンプルになって思考も減ってきたし、するとブログなどを書くことからまた遠ざかっていきますね^^


まあ、毎日自分を見続けていたわけではなく、ネットスーパーでパンが買えない&イーストフードやベーキングパウダーも買えなかったため天然酵母づくりにチャレンジしたり、アイスクリームをつくってみたり、映画もいろいろ観たし、本も読んだし、英語の勉強やオンラインお茶会したりもしてました。



今回の骨折は、正直、自分にとってほんとにいいことしかなくて、とかいうと強がってるとか、ポジティブシンキングとか思われる方もいるかもですが、

もちろんいろいろたいへんだったです、片足だけじゃなくからだ全体、臓器や代謝にまで影響するなんて思いも寄らなかったし、何より松葉杖での移動があんなにたいへんなどとは想像もできなかった。

でも、それも含めて、自分にとってはいい時間をもらったなとしか言いようがないんですよね、ほんとに。


たとえば、骨折していなければ翌週に、引越し先の下見に行く予定で、3月中にはいまの住まいを引き払う予定でした。

実は大家さんとずっとうまくいっていなくて、言い争いがあったりもしたし、なんとかいい面を見ようとしてきたものの、音の問題やらジオパシックやらで体調に影響が出たりという状態が、結構前から続いていたんです。

このことをテーマにいろいろなセッションを受けたりもしたんですけど、結局解決にはならず、で、こんな家、おさらばだ! と思って出て行こうとしていたんですね。


でも、この家自体がいろいろなエネルギーを持っているにしろ、それを選んだのは自分だし、そもそも家というもの自体に対する自分の思いやストーリーは、ここを越すことでは解決できないことも理解していました。

それでも、いろいろ気づいたこともあったし、とにかく出てから残りはやるよ! と、ある意味強硬手段的に引っ越すつもりだったんです。


けれど、骨折によって完全にそれは絶たれ、ある友人からは「足だけに足止めだね(笑)」と言われましたがまさにその通りで(笑)、ではこの骨折はわたしにとってなんなのか、自分の何がこれを体験させるに至ったのかをみていきました。


で、長くなるので割愛しますけど、いろいろあった中で、最終的には「こんな家、出ていってやるぜ!」から、大家さんに「ほんとにありがとうございました」と言って出て行こうという方向に、意識が変わったんですね。

正直これは自分でも驚いたし、ものすごく大きなことでした。

ほんと、あのまま引っ越してしまわなくてよかったです。


そのほか、些細なことでは友人がマスクを送ってくれたり、大家さんの奥さんが突然持ってきてくださったり(うちだけだったみたいです)、トイレットペーパー、ティッシュも友人や大家さんの会社の事務の方が持ってきてくださったり(これもうちだけ)、

これはまだなかなか手に入らなかった時期のことですが、結局自分で買ったり直接頼んだりすることもなくすべて届くなど、全体性を感じる経験がいくつもありました。

もともと、自分はこういうことが起こりやすいとはいえ、ほんとに自ら動かなくても必要なものは得られるのだな、というか、これはいつでも誰にでも起こっていることで、いいことも悪いことも全部そうだし、あらためて世界が自分のあらわれであることを自覚するばかり。

今年についてのリーディングで、自分がどう在りたいか、これ以外のメッセージはほんとにないなという感じでしたけど、それをますます感じます。


日々、ほんとにいろいろなことが起こっていますけど、起こるべきことが起こってるよな、と思いますよね。

あらゆるものには相反する二つの側面があり、結局のところどちらに、ではなく、何にフォーカスするか、自分はどう在りたいのか。

今後もいろいろいろいろあると思いますが、外の何か、誰かの言葉にただついていくのではなくて、自分はほんとうは何を感じているのか、そのことについてどう在りたいのか、その都度立ち止まって自分の声を聞いていくことだと思います。


白とか黒とか闇とか光とかどっちが善で正でどっちが悪で偽かなど、判断の時代はほんとに終わりですね。

もう、そうした“ストーリー”から出る時期に、完全に入っていると感じます。








先週末に自分で設定したある作業の締め切りが近づいてきて、慌てて毎日10時間以上PCに向かってデザインしたりテキスト書いたりしていて、終わったらもう目はかすんでるしからだはかたまってるし電磁波でめちゃだるいしで、なるべくPCに近づかないようにしてました。


締め切りが終わってからは、まだ半分ギプスなので寝ながらストレッチをしたり、ひさびさにゆっくり呼吸法をして昼寝をしたり、なるべくゆっくり過ごしていました。

からだの各部位すべてに、時間をかけて呼吸を通していたら、滞りの部分があらわれてきて痺れが起こったり、場合によっては体温が急激に下がったりからだが本来の状態に戻ろうと調整が起こってくるんですけど、
普段はそこまで深くはやらないので、ああまだここになんかあるなあとか、これもしかしたら今生で手放せるかも? 等々思うこともあって、とにかく骨折が完治したら、またしっかりブレスワークをしようとか、きちんとヨガに通ってみようと思ったりしています。

あと、先月インド映画を4本くらいみたんですけど、実は結構響いていたなと感じています。

なんというか自分のこれから、というか軌道に戻っていく感覚を思い出させるような流れに入ってる気がするんですよね。

それにともなって自然とワークがはじまったり、でもそれはとてもシンプルで、ああやっぱり自分はこっちなんだよな、と、再確認している感じです。

いまさらですけど、面白いもので、自分がこう在りたい、とそっちにフォーカスしてちからを抜いてゆだねていくと、情報がどんどん入ってきますね。会ってみたいひとがあらわれたり。


たとえばこのブログを読んでくださっているひと、エンパスの方が多いと思うのですが、それ、実は武器というか、とっても強みになるんですよね。

自分が在りたいバイブレーションに同化したら、どんどんここちよくなるし、必要なものが勝手に集まってくるから。

別に、なおしたり取り除いたりしなくたっていいんですよね。

受け容れたらそれは資源になる。

なんか、もっとのびのび自由になっていこう、って思ってます。

世界はいろいろいろいろたいへんだけど、自分は骨折含め、ほんとにいい時間もらってるな、と感じる毎日です。


って3日くらい前に書いてアップし忘れ、、下書きに入ったままでした。


ちなみに今日は朝イチで病院に行って、洗濯して、布団を干して、昨日、一昨日と、セッションの合間にTシャツにプリントをしたのでそれらにアイロンをかけて(インク定着のため)、
お店に発送して、荷物を二つ受け取ってそれらの整理と、注文していたネットスーパーの食料を受け取って、冷凍冷蔵などそれらの整理をして部屋をちょっと片づけて、とりあえずお味噌汁をつくって、これから本格的に晩ごはんの準備の前の休憩です。


今日はめちゃ疲れました。。

そんな感じでやってます。





昨夜、突然ネットがつながらなくなり、いろいろ電源切って再起動を繰り返してもだめ、

ケーブルを換えてみてもだめ、プロバイダーの障害情報もなし、

そもそも以前からときどきあったことだし、これはもう建物自体の回線の問題だなと思い、

今朝プロバイダーに連絡するとまさにそうとのことで、

早くて復旧は月曜日の夜、建物の全ケーブルを取り替えるとなるとさらに先、

というわけで、その間セッション予定の方(すみません!)や

オンライン英会話のキャンセルなどネット関連の連絡をして、

いまiPhone でこれを書いています。


いやーなんか次々来るなあと思いつつ、まあ壊れてるものを早く直すに越したことはなく、

セッション中とか逼迫した連絡が必要なときじゃなくてよかったわけですが、

何より、自分にとって、いかにPCやネットが不可欠になっているか思い知らされています。

同時にほんとに必要なものの見極めとか、ネットが使えなくなったときの生活のイメージだとか、

いろいろみえてくるものがある。


旅行のときは現地の情報を調べる以外、まずSNSとかみてる時間もないし、

ブログもよほどじゃなければ書かないし、

そのときの体験に集中しているからなんでしょうけど、wifi借りてもスイッチを入れないことのほうが多いんですよね。

しかも、わたしのiPhone はsimのいちばん容量が少ないプランなので、

ほんとに必要なものごとを選んで接続します。


にもかかわらず、家にいたらまあ仕事もあるけど、ネットをつながずにはいられない。

というか、つなぐことが自分の自然になっている。


とはいえ、新鮮に感じることもいろいろあります。

たとえば、普段はネットの好きなラジオ番組しかほぼ聴かないんですけど、

今日はひさしぶりにラジカセのラジオで超ひさびさにFENをつけてみたら、

ああこんなに音が太かったんだなとか、やわらかいなとか、この音質はここちよくないなとか、

あとたまたまなのかもですが、普段聴いているHIP HOPのネットラジオと選曲がほぼ一緒で違和感なしでびっくり、とか。


そして、時間がゆったり流れている気がします。

ちょっと空間にたわみというか、ひとまわり大きくなったような。。


もしも月曜日に復旧しなかったら、wifiをレンタルするかもですが、それもなんか不思議。

旅先だったら絶対そのまま過ごすもんね。


時と場所が変わると持ち物が変わるって、

過ごし方がちがうとはいえちょっと不思議だなと思う。

うん、ここについても考えてみよう。


って、結局自分はこうやって生きてきたんですよねーずっと。

どんなできごとも、必ず自分にとって、なんらかの示唆になる。


ほんと、そこから何をどれだけ拾えるか。

今回の骨折も含めて、特に突然の、

自分では手に負えない、生活を一部でも変えなくてはならないようなできごとって。


というわけで、ロックダウン色がますます強くなってきたわたしですが(笑)、

うちはテレビもないし、今夜は先日レンタルしたDVDをみたり本を読んだりして過ごそうと思います。


みなさま、それぞれいい感じの週末を過ごしましょう~☆



って書いたのが土曜日の夕方くらいで、

携帯からアップするつもりだったのですがアプリをつかわないとだめで、結局DLできず。
今日、無事に回線が復旧したので、いちおう記録としてアップしました。


ネットがつかえない間、FENを聴いたり、借りていたDVDを1日1本観て、本を1冊読み終え、

ときどきそわそわしながらも、いつもよりゆったりと過ごせました。

あと2,3日続いていたら、もっと慣れて、また少し生活の仕方が変わったかもしれないと思うと少し残念な気も。。

常時接続はすごい便利ですけど、自分がほんとに必要なときだけつなげるようにするのもいいのかもと思ったりしました。


しかし、とりあえず携帯があってよかったです。

骨折してなければ、公衆電話まで行けばいいし、

いまも行けないことはないんですけど、階段は決死の思いで昇り降りだし、

まだ松葉杖オンリーで行くのは賭けだよなあ、行けても帰ってくるの嫌になると思う。

以前、2年くらい携帯手放していたことがあったので、まあなければないでいいんですけども、

今回ばかりはよかったです。


というわけで、また!




















自分の周りはほぼ外出自粛体制になり、実際に会っているのは、ゴミ出しと郵便物を届けてもらっている大家さんの会社の事務の方と、病院で出会うひと、タクシーの運転手の方、宅配の方のみとなり、友人知人とも完全にオンライン交流となりましたが、
先日、毎日仕事場に行っているひととのやりとりで、おたがいの意識にズレが出てきているのを実感して、そんなものなのか、、と多少ショックを受けたりしています。

外出自粛組は、たとえばきみに会いたいけど大切にしたいからいまは我慢、みたいな歌がリリースされるくらい生活のシフト、意識の方向性がもうそっちに行っているひとがほとんどなんだと思うんですよね。

実際、家でできることや、この状況で何をしていこうか、みたいな話をしているし。


でも、毎日いままでと同じく電車に乗って会社に行って、というひとたちはそういうメンタリティではないのか? と、都内自粛要請(?)が出てからまだひと月も経っていないのに、そんなにちがいが出てくるものなのか、と。


もちろん、すべてのひとがそうなわけではないし、自粛組の中でも、三密ではないからと、山や海へ出かけているひともいるとのことだし、やはりそれぞれなのですが、自分の身近でも結構共鳴できなくなっているひとが出てくると、またいろいろ思うことが出てきます。

方向性が全然ちがう意識のひともいるもんね、、。


で、今日は、ご存知の方もいるかもですが、
トラック運転手の方がガソリンスタンドのシャワーを利用できなくなりつつあり、このままでは流通に影響が出てくる可能性があるという話をシェアします。

https://news.infoseek.co.jp/article/gadget_2499132/


トラックの運転手の方の生活について考えてみたことがなかったので、そんなことになっているのかと驚いたのですが、

真っ先に思ったのは、おなじみのバタフライ・エフェクトと、全体性についてでした。


つまり、ガソリンスタンドがシャワーの利用を中止すると(北京の蝶の羽ばたきが)、さっき食べたりんごが食べられなくなるかもしれない(ニューヨークで嵐を起こす)という、かなり飛距離のある事象が展開するということですよね。


バタフライ・エフェクトではニューヨークで嵐かもしれないけど、わたしたちはりんごだけでなく水もお米もトマトもお味噌汁も、、って、もちろんこれは極論ですけど、ほんと、これぞまさしく全体性の極み、と思える話じゃないです??



以前、フラワーエッセンスの遠隔でのセッションで(いまはやっていませんが)、北海道にお住いの方に毎月ボトルを郵送していたのですが、郵便の基準が変わったか何かで、中身について詳細を聞かれたことがありました。

結局これはアロマオイルのようなオイルなのか、それとも化粧品のようなものなのか、みたいなカテゴリーのことで話が進まず、
ほかの係のひとに聞いてみましょうということで呼ばれていらした方が、たまたまエッセンスを使っている方で、処理をしてくださったんですけど、

もしかすると空輸の段階でストップがかかる可能性があるとのことで、これは賭けだな、みたいな気分になったんです。


で、結局無事届いたのですが、クライアントの方に、全体性のことについてお伝えしたくて、今回の発送でこんなことがありました、というメールを送ったんですね、するとその方から、わたしと郵便局の方たちがいろいろ苦心してくれたおかげで自分が受け取ることができた、というような返信をいただきました。


いやいやそれだけじゃないんだよと、それはプロセスの過程の1シーンなのであって、そのエッセンスを次の部署や飛行機、そこからまた郵便局、配達局、実際に配達してくださる方、というように、目に見えないところで何過程あるのかわからないわけですよ、何人の手がそれを運んだのか。

そして、そこにも何か物語があったかもしれない。


ひとつのものごとの全過程について把握せよとか意識したりしなければいけないなどと言ってるんじゃないですよ!

でも、ちょっと想像してみると、自分のところへやってくる何か、そこには結構壮大な展開が繰り広げられているかもしれない、この先一生出会うこともないかもしれない、出会ってもわからない誰かの手と手がつながって来たんだよね、って、

プリンとか食べながらぼんやり思いをめぐらせてみるのもいいんじゃないかなと思いました(わたしはもう何ヶ月もプリン食べてませんが)。



いま、みんながなかなかフィジカルにつながれない状況の中で、新しいコミュニケーションや生活を探っているわけじゃないですか。

そして、ちょっとずつ声を上げていくことでいろいろな変化が起こってる。


これは、この肉体やマインドを持ちながらの、無意識無自覚なワンネスへの動きなんじゃないかとわたしは思っています。



というわけで、また。

この生活の中で、新しい何かが見つかる1週間でありますように☆