変わることについての覚え書き・1
*「何かをやめるワークショップ」の詳細はこちらです。
先日、ひさしぶりにアート・セラピーの講座を受けました。
アメリカの病院でクライアント、というより患者さんの臨床として行っている先生のレクチャーで、いくつかのケーススタディを聞きながら、ここまでできるのか、と驚いたのと同時に、やはりこころとからだのつながりの深さを感じるばかりでした。
レクチャー以外に短いワークも行われて、最近自分が受ける側ではなかったので新鮮かつ、なかなか描き出せなかったのですが、「自由にやってください」のひとことで、頭/言葉から、感覚へと完全に視点が切り替わり、
言葉になっていない、言ってみれば意識に上がってくることをゆるしてもらえていなかった感情の数々が、制限をはずしてもらえたよろこびとでもいいましょうか、
真っ白だった画用紙が、あっという間にいろんな色やかたちで埋め尽くされていきました。
それを眺めていると、軽い嗚咽のようなものが上がってきて、ああ、まだこんなに自分を閉じ込めていたんだな、と、ただただ共感し、気づいてあげられなくてごめんね、と、自然と自分に謝っていました。
参加者は20人弱で、専門的な内容のせいか、全員がセラピーを学んだ/学んでいる方たちで、アートについて勉強している学生の方から広告関連のデザイナーの方、みんな知ってる某大学の教授の方、また養護施設の先生や医療従事者の方など精鋭たち、という感じで、
その半数は自分よりも年上、70歳超えの方もいらして、みなさん学ぼうとする意欲がすごく、質疑応答も活発でした。
そして翌日は、学びから余暇を楽しみに。
慰労もかねて、クリスマスのスワッグ作りのWSに参加。これがまた面白くて。
先生はたぶん70歳越えの外国人の方でとにかくパワフル、自分より間違いなく元気、というか生命力があふれているあふれきっている、というかほとばしってしまっている、
からだから物理的にエネルギーが放射されるのが誰にでもわかるだろうと思います^^
またこちらも参加者は20人弱、年上、同年代、年下、たぶん1:1:1の割合で、とにかく笑いが絶えない、みなさんおだやかでありつつ元気いっぱい。
なかには還暦を過ぎてからサーフィンをはじめたという方がいらしていまも現役、しかし絶対にサーフィンなんかやってるようにはみえない、どちらかといえばカルチャー、アート寄りで、失礼ですが完全にキャラクターとして成立するような、めちゃめちゃかわいらしい方でした。手とかちっちゃいんですよね、かわい〜〜〜。
はじまったらみなさん、すごい真剣で、終わってからはおいしいサンドイッチやおやつ、お茶で談笑の時間になったんですが、
なんかね、すごい素敵だったんですよ、土地柄もあると思うんですが、まずみなさん、物理的に豊かな方がほとんどだと思う、でもね、ほんとに豊かなのはやはりマインドなんですよね。
だいたいこういう会って、こう、妬みのエネルギーがちらちら見えてきたり、なんならわかりやすくマウントとってくるひと、もっというと先生自体がちからをみせつける、みたいなこともあったりする。
でもね、そういうのがあまりおもてにあらわれてこなかったんですよ、そう、不足感に支えられていない空間。
もちろん、まったく不足を感じていないひとはいないだろうと思う、けれどそれを向上心に変えるというか、やりたいことのエネルギーに変えているようにみえた。
何より楽しんでる。
目の前のこと、自分の限りある時間、人生をほんとに楽しんでるんだなあ、って。
それをみてたらちょっと涙ぐんでしまった、なんなのこの幸福空間は、って。
以前の自分は、先生のキャラクターも含めてこうした空間に対して、素敵だなあ、いいなあ、と思いながらも、どこか居心地のわるさというか、なんとなく疎外感を感じていたんですよね。
でも今回はとにかく楽しくて、面白くて、ああこういう時間をもっと体験したいなあと素直に思った。
そう、それはやっぱり、自分があることをやめたからこそ、あの空間を楽しめたんだと思った。結局、自ら疎外してたんですよね、その場から自分が自分を切り離していた。
実際、帰りのバスで、もう何度も彼女のWSに参加しているという方に、いろいろ話を聞くと、
やはり、あの雰囲気が合わないひともいて、次から来なくなってしまうとのことでした。
実はこのWS、ほんとは長年の友人といっしょに参加するはずだったんです。
けれど前日に高熱を出して行けないという連絡があって。
そのメールを受け取ったときに、自分もやめようかなあ、と思ったんですよね、寒いかもだし、あんまり体調もよくないし、と、行くのをやめる理由を探し出しはじめた(笑)。
でもハートに聞いてみる、行きたがってる、というより行ったほうがいいよ、と言ってる。
で、お風呂に湯の花ぶち込んで、1時間近く半身浴して、ヨガをやって完全にからだをゆるめて、レメディ5,6個口に放り込んで寝たら翌日、あ、結構からだ軽いじゃん、と、支度をして出かけて、ほんとによかったと。
あのとき、前の自分が引き戻そうとしてたんだよな、って。
友だちはすごく楽しみにしてたんですけど、正直、ひとりで行けてよかったと思う。
もしもいっしょだったら、友人とのコミュニケーションを優先して、自分の変化によく気づけなかったろうし、
はじめて会った参加者の方たちともあまり話せなかったと思う、
アラ70女子サーファーの存在も、きっと知らぬままで。
後日、友人のところには、先生から素敵なブーケとカードが届いたとのこと。
すべて采配だな、とおもう。
変わりたい、変えたいと思うとき、
何かを足しても足しても変わらないのは、
それが育つことのない真逆の土台の上に足してるから。
だとしたら、その土台には撤退してもらわないといけない。わたしがやめたいくつかのことは、
これまでの自分の、ある意味アイデンティティになっていたことです。
それが自分だと思っていたし、守られてもいた。
だからそれをやめることは苦しい。
けれど、その苦しさはけして超えられないものではないし、
逆に言えばその土台で苦しみを抑えつけているだけのこと。
それを明るみに出してあげる、くるしぃ〜〜ってちゃんと感じてあげる、
そして送り出す。
いままでありがとう、ってこころから言える。
自分の苦しみをみたくない、よくわかるし、
けれど、みないふりをしてもそれはある。
そして、みたくないならみないまま、
ずっと土台の重石の下に置いたままでいいとおもう。
いつだって、選ぶ、選べるのは自分だから。
というわけで、また。
「何かをやめるワークショップ」のことを考えていたら、
やめたことから起こった変化についての自分の知人の話を思い出したので、
また書きますね。
それでは、
今日もいい感じの1日を☆
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