変わることについての覚え書き・2 自分と知人の場合


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 *DAY2のお申し込みですが、あと2,3名で締め切ります。DAY1のみはまだだいじょうぶです。

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きのうアップしようと思って忘れてしまったので。

先日つくった、今年のスワッグです。


今年はなんとなく、リースじゃないのがいいなと思い、スワッグに。
そしてなんとなく、前回の先生じゃないひとに教わりたくて。

そしたらやっぱり、雰囲気も出来も全然変わりましたね^^

というか、たぶん自分が変わったからだろうな、なんかおだやかで、それでいて自分のちから、もう誰にも気をつかうことなく、ちゃんと出してあげていいよ、って言われてる気がする。

まだおっかなびっくりしつつだけれど(笑)。


そう、わたしが「やめた」いくつかのことのひとつは、

「誰かに気をつかって、ほんとの自分を出さないこと」です。

もっというと「犠牲的精神」を “やめた” 。

クラスなどでは、すごく自分を出してるようにみえるかもですが、

実はむかしから、自分が道化になって和が保たれるなら、と、自らばかなひと、とか、だめなひと役を買って出たりしてました。ギスギスした関係性の中にいるのがいやなんですね、

特にプライドの高いひとやこのひとは絶対に傷つけちゃいけない、と感じるひとがいると、立てなければ(反撃攻撃されるから)、と反射的に合わせようとしてしまう。

悪者役もやったりね、なんというか仲介、中和役をいっぱいやってきたように思います。


もちろん、自分がかかわっている範囲だけで、わざわざ別のグループまで出張したりはしないですけど、
以前働いていた会社で(といっても、わたしは社員とかになったことがないのでいわゆる社会人ではないですが)、

あるとき同僚が、「いま◯◯くんが社長に怒鳴られてるからなんとかしてください」と、わざわざわたしに言ってきたことがありましたね、全然関係ない部署なのに。

その仕事自体にも一切関与してなかったので、さすがに「できませんよ」とことわりました。だって、それはちがうでしょ? と。なぜわたしが出張らなくてはいけないの? と。


けど振り返ってみれば、つまり自分は「そういう役」として認識されてたってことなんですよね、自覚はなかったけど、それが周囲の “わたしに対するイメージ” 。

だからそれに反する行動をとると、「なんで?」となる、その同僚はショックを受けたようで、びっくりしながらも、怒りを浮かべた表情をしていました。

それを受けて今度は無意識に、裏切ってしまったかも、という罪悪感を自分が背負うことになってしまう。

そういうのをやめました^^


すると、裏切られた、と感じるひとは自ずと去っていきます。責められたり陰口を言われたりすることも、もしかしたらあるかもしれない。

そこでまた苦しい気持ちが出てきたりもするけど、

じゃあ、そういうひとたちの “期待” にこたえようとするメリットは何か。

もう、それを享受する必要がない、というか最初からなかったんですよね。

そんな関係性でつながっているひとやもの、行動をやめよう、って決めました。

「何かをやめるワークショップ」の意図、ちょっと伝わりましたかね。



さて、古い知人A子ちゃん(仮)の話です。

知り合ったのはわたしがまだ高校生のときで、A子ちゃんはたぶん当時20才くらい、たしかどこかのライブハウスで出会ったんだと思いますが、

とにかく目立っていた、髪もメイクもファッションもすごくて、なかでも彼女は群を抜いていました。


もともとなぜか年上の女性にかわいがられる性質なので(といっても利用されそうになったりすることもあるんですが...)、
すぐになかよくなって、彼女のライブや個展に誘ってもらったりしました。

あんまりくわしく書くとこのご時世、検索ですぐに特定される、というかいま調べたら自分が思っていたより、その界隈では全然有名な方でした笑、やべっ笑。

とにかく当時はかなり先鋭的で、新聞の文化欄にも取り上げられていましたが、まあ特異なアーティストでした。

けれどそのうち見かけなくなり、たぶん自分の行動範囲も変わっていったり、というか、特に若いときって周囲の変化もめまぐるしいじゃないですか、まあ自分がそういうコミュニティのなかにいたからかもしれませんが、
ときどきどうしてるかなあと思い出すくらいで、やがて忘れていきました。

そして自分もバンドをはじめたりして、自分自身のコミュニティみたいなものができていたころ、あるお店でバイトをしていたときに、突然お客さんから声をかけられたんですね、「もしかして◯◯ちゃん?」と。

それはまったく知らない女性で、というか、自分の友人知人関係にはけしていないであろうファッションと雰囲気。

そう。もうお察しの通り、それがA子ちゃんでした。

とにかくびっくり、というかあんぐり。だって別人なんだもん。

そもそも顔、ほぼ素っぴんだからわからない、すごいメイクをしていたわけで、素の顔なんて想像できないし、したことすらないわけですから、完全に「知らないひと」なんですよ。

声のトーンも話し方もちがうし、ほんとにA子ちゃん? ほんとにほんとにA子ちゃん?? ねえほんとに??? と、700回くらい疑問符出しながら会話を続けていくと、

たしかに当時の話、全部整合性がとれてる、で、やっと「ほんとにA子ちゃんなんだびっくり!!!」と信用、でもむかし話に花なんか咲かせない、それよりなんで? A子ちゃんに何が起きたの??? と、さらなる疑問符を繰り出しながら、その変容の物語を問い詰めました。


早い話が「運命の出会い」、というものがあったそうなんですが、
そのひとといると、いままでの自分がいかに強くあらねばならないと思っていたか、もちろんいままでの自分がやってきたことを否定などしない、純粋に楽しかった、思いっきり自分を表現してたから。

でも、もうこれまでの自分は卒業、あのメイクはいらない、もっと素の自分で、自然に生きていきたい、自分が女であることを大事にしたいと思ったんだと。

そう思うと、ほんとはこんな服が着たかった(全身白やピンクを基調としたペールトーンで森の妖精みたいでした、そういう意味ではやっぱり極端なひとでしたね、目立ちまくってたから笑)、

だからいままでのメイク道具をはじめ服やアクセサリーなど以前の自分をあらわすものを全部捨てた、酒も煙草もやめた、料理を習いはじめた等々、

もう「変貌」「変容」というしかない、人間って、こんなに変わるんだなあとほんとうに驚き感服したことを思い出します。


また後日、A子ちゃんを真逆? いや本来の姿に変えた「運命のお相手」、まさに「王子さま」を店に連れてきて、紹介してくださいました。

どんなひとなんだろう、あのA子ちゃんをここまで変えるんだからそりゃあすごいひとなんだろうと、いろんな意味でどきどきしてたんですが、

これは完全にわたしという人間の主観ですが、とても普通の、ニュートラルな方でした。

けして森の妖精ではなかったし、また俺についてこい、みたいな猛々しい風貌でもなく、
もちろんおしゃれな方でしたが、シンプルで、どこか突出してみえるわけでもなく、そういった意味ではどこにでも溶け込める方。

そして隣に並ぶA子ちゃんは、完全に恋する少女でしたね^^

A子ちゃんは、虚勢をはらなくては、強さをみせていかなくてはいけないと思う自分をやめたんだろうなあ、と思います。

その自分を、A子ちゃんの王子さまは必要としなかった、その役をおろさせてくれたんでしょうね。

たしか「女であること」「いままでの自分はちがった」というワードをたくさんつかっていた気がします。

そしていま彼女のことを思い出していちばん感じたのは、

やはり、男性性で生きることをやめたんだとおもう。


これを書いたら、なんか自分も、またすこし肩の荷が下りた気がします、というか、気持ちが軽くなった感じ。

うん、もう “素” でいいんだよね、そのままの自分でつながるつながりだけで。

去っていくひともいるかもだし、いままでやっていたことをやめたりすることもあるだろうけど、
それは自分が自分のままでいるための通過儀礼のようなもの。

いわばお着替えですね、新しい自分のための^^



先日、先々日と、苦しむことについて、もしかしたらこわいと感じるひともいたかもですが、

それは実は、ほんとの自分として生きること、素直になることをこそ、おそれての苦しみ。

だから安心して、まず「苦しむこと」をやめてみたらいいんじゃないかと思います。

それは「この自分」として生きること。

花や木々、植物、土や石や水、太陽、多くの動物たちのように、同じ自然物の一員として、

何も足さずに自然に存在すること。


ほんとの自分は、その「許可」を待っているんじゃないかな。

と思います^^



苦しんではいけない、苦しみをもっていてはいけない、なんて、

また自分に「新たな荷物」を背負わさないでくださいね。

ただ「やめる」んです。行為を足さない。


というわけで、また。
次回は、もうひとりの知人の変容話を書こうとおもいます。


ようやく冬っぽくなってきたので、

あたたくして😊



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