思い込みと諦め、インナーチャイルドのこと。



おかげさまで、骨折もだいぶ回復。

最近は、折れた場所のまわりの筋肉が固まらないように(すでにそこそこ固まってしまってますが)、雨が降っていない時間はなるべく散歩に出かけるようにしています。


今日は午前中に、郵便を出しつつひさしぶりに本を借りに図書館へ。

やっぱりいいですなー図書館。読みたい本がいっぱい(家には積ん読本もいっぱいだけど)。

ひともまばらで、自動貸出機やPCがちょっと増えたような?

館内全体がなんとなくきれいになった気もするし、ストレスなく回れてよかったです。


いまは片方だけ松葉杖をついて、一歩一歩確かめながら歩くんですけど、道ってこんなにでこぼこしてたり曲がっていたり、思いがけないものが落ちていたり、

骨折前の移動はほぼ自転車だったこともあって、きょろきょろしてしまう。


今日はやたらとつる科の植物が目について、なかでもこれ。




近づいてみると、すごいかたち。


からすうりの仲間ですかね、ほんとは夜だけに咲くグループの花だったら夜に見たい、たぶん昼よりもすごいはず(どなたか、名前を知っていたら教えてください)。


いつも通りの風景に慣れてしまうと、その道や場所はいつの間にかひとつのかたまりみたいに整理されてしまって、振り返ることもなく、いろいろなものを見落としてしまう。

ゆっくり見てまわること、自分にとってはすごく新鮮で、大切だし、何より発見があって楽しいです。



ゆっくり見てまわること、といえば、骨折してから、自分や世界、領域のことをいままでとはまた違う視点でみるようになりました。

まあ、いまにはじまったことではないんでしょうけど、足が折れてからは、さらにひろがってると感じる。


特にからだのこと。

先日も書きましたけど、からだを動かすことが苦手、嫌い、というのは実は自分の思い込みだったのではないかという気づき。


先日、また別の方とのセッション中にインナーチャイルドの話になり、自分の経験を拾いつつお話しているとき、ふと、3年くらい前に出てきたわたしのインナーチャイルドのことで、思い出したことがあったんです。


そのチャイルドは発見当時、幼稚園か小学生の低学年くらいで、すぐには統合できず、ゆっくり時間をかけて見ていったのですが、

その過程で、何かやりたいことがあるかどうか聞いてみると「テニスがやりたい」とかえってきたんです。


なるほどテニスかー、確かにむかし憧れたよなースコート履きたかったよなーあのボールがラケットに当たる音いいんだよねーあーやりたかったなーでも諦めたよねーなぜなら「自分には無理だから」。


そのときインナーチャイルドには、思う存分やったらいいよ! と、イメージの中でラケットやユニフォームをあげて、コートに送り出して終わったのですが、

先日、そのことをひさしぶりに思い出して、ちょっと愕然。


「テニスをやりたかった」というインナーチャイルドの思い、
つまりこども時代の体験、感情、記憶、エネルギーが、何十年かの時を経ても残ってるって、そのくらい強いものだったわけですよね。

それは、そのくらいテニスがやりたかった、というよりも、諦めるという体験、それも、やってみる前に無理だから、と決意したことがつらかったんだと気づいたんです。


もしも自分が運動が苦手、からだを動かすことは無理って思っていなかったら、
あのときどうしていたんだろう。

いまはもうテニスをやりたいとは思わないけれど、

こどものころ、可能性というものを体験をもって確かめることができずに諦めていくというのは、もしかしたら大人のそれよりもつらい、

というより、何か寂しかったんじゃないかなと思った。


ほかの人が同じ思いを持つのかどうかはわからないけれど、
こどものときのわたしは。



******


いろいろなことは、重ねていくといつしか慣れてしまう、特にあまりよくないことは。

自分はそうだと、世界はそういうものだと決めてしまう。


諦めてしまうことに、慣れないでください。

いつから信じることが難しくなってしまったんでしょう。


思い出してみてください。

わざわざ信じる、という決意すらすることなく、

また信じる、なんて思う隙もなくただただ目の前の体験、それ自体となって楽しみ、
よろこび、集中していたときのこと、


そのとき時間はありませんでした。

ただ、それそのものになっていた、

自分さえもそこにはいませんでした。


それ、そのものになって、軽やかに、ただただ動き、流れ、移り変わって。



********



急にメッセージがやって来たので、書いておきます。