『マスク2枚』と想像力



「マスク2枚」から「まず2枚」に発言が更新(?)されていましたが(実際にそうなるのかどうかはわかりません)、わたしはもう笑いませんでした。


なぜ、自分が「マスク2枚」で笑ったかというと、その発想がすごいなと思ったからです。

「お肉券」「お魚券」、ほんとかどうかわかりませんが「お寿司券」「DJ券」などの案があったとかなかったとか、そこへ来ての「マスク2枚」、もの凄いなと、凄すぎるなと、わたしには絶対思いつけないです。


さらに笑いながら思っていたのは、人間、最後は笑いなんだよな、そしてほんとうにこわいのは、笑えなくなったときなんだよな、と。



先日「反応」について書きましたが、最初はこの発想、想像力について書くつもりでした。
まず、この「マスク2枚」、そしてその発表から起こったいろいろなひとたちの発想。


ご存知の方も多いかと思いますけど、サザエさんやジブリのマスク2枚のコラージュ(ジブリは作成者の方がわからなかったのでリンクしないでおきます)、「アベノマスク」というハッシュタグ、これらが発表から数時間後に起こっている。

もうほんとすごい、これも含めての笑いです。念のため。


いや、ほんとに、ユーモアがなかったらと思うとおそろしいし、こうした発想、想像力にとても救われます、わたしは。



都知事の土日外出自粛要請(?)の記者会見(オリンピック延期後の、と言ったほうがいいですかね)、増える東京の感染者数、そしてマスク2枚を受けて、わたしの友人のなかにも心理状態に変化が起こっているひとが出てきていて、たとえば間接的な知り合いに感染者が出て不安になってきて、外出こわいからスカイプしてもいい? というメールや、

わたしの足が治ったらデモに行こうというメールが、いままでそんなことを一度も言ったことのない友人から突然来たり。


ほかに、音楽関連では自宅からDJやライブの配信をはじめたり、アロマテラピストの友人は、自宅で誰でもできる簡単なケアをブログにアップしたり、造形作家の友人は、先月急遽アマビエを自作して、毎日写真に撮ってアップしていたり。


また、特に表現などに関わっていないひとは、オンラインの英会話をはじめていろいろな国の先生から現状を聞いたり、この機会にヨガや身体を動かすことをはじめたり、あと、大掃除をはじめたひとが周りに何人かいますね。



自宅でひとりでじっとしていたり、親しく話せるひともいない自分はどう過ごしたらいいかわからないという声を聞きました。

また、これからどうなっていくのか不安で仕方なくて、ずっとネットで情報を追いかけてしまう、裏で何かが起こっているのか、どの情報が正しいのかわからなくて余計に不安になるなど、ネットから離れられなくなっているという声。


正直、数字的なことも不確かだし、誤報、誤読、憶測からの情報もとても多いじゃないですか、さらに刻々と変化する状況にともなって情報も変わっていく中、正直、このネットの情報のどれを参考にするかひとつとっても、自分で決める、基準のようなものをつくる必要が出てくるんですよね、それもあくまでも自分の基準を。


ほんとは、わざわざ自分の中に決まりを置く必要なんてないと思うんです、けれども外しか見られなくなる状態、それさえもほんとうには信じられないときって、結局どこの誰がなんと言おうと信じられなくなるし、そこまでくるとガイドラインのようなものが必要になってくると思うんです、それも誰かのではなく、あくまでも自分自身の。


って、そんな状態だからこそそうしたことができないんだと理解しつつ。


けれども、ほんとに合ってるのかどうかもわからない情報に一喜一憂するほど感情を揺さぶられたり、信用していた誰かの発言の変化で疑心暗鬼になったり、それって、その合ってるのかどうかもわからない情報に自分の在り方の指針、権限を渡してしまってるということなんですよね。

まず、そこに気づくことからなんじゃないでしょうか。


先日書きましたけど、「反応」、これはいいも悪いもない、でもその次にくる思考からどう発想するか、これがすごい大事なんじゃないかと思うんですね。


もう起こってしまっているこの状況と、自分がどう折り合いをつけていくのか、自分はどうしていくのか、どう発想していわばどう共存し、どんな日常を創造していくかだと思うんです。

特にこのコロナ騒ぎでひとが分断されていくというけれども、ほんとにそうでしょうか。
つながる方法、完全に奪われていますかね。

それ、見方、捉え方次第なのでは? と思う。

そして、この時期だからこそ、ひとつの発想から何かが生まれる可能性を大きく孕んでいると思うんです。


ネットには良い面悪い面いろいろありますけど、それはネットに限ったことではないし、もしもひとりで苦しんでいるのなら、ブログをはじめてみたり、外に向けて何かをはじめてみるのもいいんじゃないでしょうか。

実名で書く必要もないし、だったら自分の物語を書いてみたらどうでしょう。

誰にでもない、自分自身のために。



わたしはもうかなり以前、ものすごくきびしい状況のとき、2ちゃんねるのあるスレッドをみていたことがあるのですが、あるときから、少しの間ですが、そこに集うひとの質問にこたえたり、リーディングをしたりしました。もちろん名無しで。


そのときの自分は完全に笑えず、つまり本当にきびしかったのですが、ほかのひとたちの書き込みを見ていたら、相談するのではなく自然とこたえる側にいったんですよね、あれはたぶん、自分が回復していくプロセスの一部になっていたんだと、いま振り返るとそう思います。


いろいろあると思うんですよね、別に無理に発信したり何かとつながろうとしなくても。

映画をみるのもいいだろうし、音楽を聴くこともとてもいいと思うし、視点を変えたら、というか、普段見ていない場所をちょっとのぞいてみたら、知らなかっただけで案外自分が必要としていたものが見えてくるかもしれない。


どうせわからない状況ならば、とことんわからないまま、それでも自分がここちよくわからない方向へいってみたらいいんじゃないでしょうか。



そういえば、さっきの、不安になってスカイプしようとメールしてきた友だち、自分が今度、複数でのウェブセミナーをやってみようかなと考えていて、zoomを使おうかと思っていたので、テストのつもりでスカイプじゃなくzoomでもいい? と聞くと、最初はOKと言っていた彼女からまたすぐにメールがあり、これ知ってる? とzoomでログイン情報を盗まれる脆弱性の恐れについての記事を添付してきました。


リンク踏まなければいいんじゃないの? とそのときは思っていたのですが、翌日、いくつかそのニュースを見て(NASAもzoomを禁止している、という記事もありました)、ああつかわなくてよかったかもと思いました。


このニュース、ご存知の方も多いと思いますが、コロナ以外にも自分にとって身近なニュースもあるし、やはり情報も反応も感情も思考も、同じく距離をとって俯瞰してみること、あらためてとても大事だなと思いました。



そんなわけで、

ほんとに、自分が何をどう捉えるか、どういった視点でみるか、それをどう自分に還元していくのか。

情報ひとつとっても、そこから何を発想していくかで、自分の体験が変わっていくということ。


そのパターンのいくつかを、想像してみるというのも興味深いかもしれません。


そして、それをここちよい方向へ転換させていくのも、より不安を深めていくのも、自分なんですね。。


というわけで、また。


あ、先日書いた「マスク2枚と反応」、若干追記しました。

マスクについて多少熱く書きましたけど、わたしはマスク礼賛というわけではないし、いまのところ外出は病院だけですが、タクシー含め、自分がしていることでほかのひとが安心する、という意味でもするようにしています。

何もしなくてもだいじょうぶだとか、わざわざ誇示する必要も意味もないですし、過信もしていないですし(とはいえ、それでもときどき家に忘れてしまうこともあります)。


それと、インフルエンザのワクチン、わたしは打ちませんし、勧めたわけでもないです。

毎年打つひともいるくらい身近になっているからこそ、大騒ぎするほどの事態にならないのであって、安全/危険という判断に対する比較対象にはならないという意味で書きました。


って、きちんと書いておかないとだめなのかしら、、と思いますけど、なるべく誤解を生まないために、念のため。