(追記あり)『マスク2枚』と反応



めっきりブログなどを書く気が起こらない毎日ですが、それは骨折がたいへんでとかコロナ騒ぎで落ち込んでいるとかではまったくなく、期日中にやらなくてはならないことや、ネットスーパーで食料の注文をしたり(これがかなりたいへん)、読みたい本やみたいドラマや聴きたいラジオ、メールの返事を書いたり等、単に日々、目の前のやることをやるだけで1日が終わるのです。


同時に、この時期、この状況下での情報というものについていつも以上に考えていて、わたし自身、コロナに関しては、コロナウィルスというものの性質、そこに関連する数字や数値、補償関連や法律の適用範囲、政府の決定事項など、限りなく事実に近い情報以外は検索する必要性を感じていなくて、SNSで流れてくる具体的なニュースと、そこで興味を持ったこと以外の情報は一切取っていないんですよね。

無理に制限してるわけではなくて、そういう行動が起こらないんですよ、ほんとに。


ただ、いえることとして、日本ははっきりとしたロックダウンに至っていませんが、ほんとにこの時期、とても大事だとわたしは思います。

というか、この時期をどう過ごすかによって、今後の自分の世界というものが明らかに分岐していくと感じるからです。


そういう意味でも、身体として外出しない、というよりも、“自分自身から出ない”、つまり、“外に解答を求めず、自分に留まる”、またとない機会だと思うんです。



って、現状含め、今後のことについて、いまのところブログなどに書く予定はないですが、月曜夜の東京都知事からの緊急記者会見、そしてきのうの『マスク2枚』で、とりあえず自分は見知らぬひとに向けてなんらかのことを伝える場というものがあるのだから、多少なりとも自分の理解していること、感じていることを書いておこうと、のこのこ出てきた次第です。



まず、この『マスク2枚』。

これを聞いたとき、わたしはしばらく「笑いが止まらなかった」のですが、「怒りをおぼえるひと」、「落胆するひと」、「不安になるひと」、「エイプリルフールと思ったひと」、「感謝したひと」等々、わたしの知る限りの反応はそれぞれでした。

そう、ひとは、だいたいにおいて、まず最初に反応が起こるんです。

その次に、思考、行動が起こる。


たとえば、これはあくまでもひとつの例ですが、
マスク2枚と聞いて

怒った(反応)→この思いを誰かに知らせなければ(思考)→SNSに書く(行動)

という具合に、一連の流れが起こるわけですが、

怒った(反応)→この思いを誰かに知らせなければ(思考)→曲を作る(行動)

怒った(反応)→この思いを誰かに知らせなければ(思考)→とりあえず走ってくる(行動)


などなど、この流れはいくつかのパターンに分類できるとしても、実際には「思考」の数だけ増えていくんですね。


反応はみんなそれぞれで、正解ってないじゃないですか、だって、そのとき自分にはそういう反応が起こったんだから。


この場合、たとえば笑いが止まらなかったわたしに対して、怒りの反応をおぼえたひとは、わたしに対しても怒りをおぼえるかもしれないし、怒る自分はおかしいのかな? と思うかもしれないし、怒った自分を責めるかもしれない。

逆に、同じく笑ったひとは、怒っているひとを見て、笑った自分はだめなんだと自分を責めるかもしれない。


と、「思考」「行動」と分けて書いてみましたけど、結局起こってることは単に反応の連なりであって、そこには本当の自分の感じていること、思い、感情に気づくことのない、

もっといえば、名前も姿さえ知らない誰かの思い込み(こう感じること、こう行動するのが正しいとか)や概念、観念を無自覚に踏襲しているだけということがほとんどなんです(もちろん、すべてがそうなわけではありません、念のため!)。



これまで、マスクに関するいろいろな声を聞きました。

ひとつは、マスクが手に入らない人がいるのに自分がするのは申しわけないという声。

ひとつは、周りからマスクをしてもコロナウィルスは防げないと聞いて、自分はマスクをしたいけど、できなくなったという声。

そして、海外の友だちから、マスクをして歩くのは日本人だけ、こっちではこわいと思われるし必要ないと言われて、自分が弱くてだめな人間のような気がするという声。


これらに対してわたしがお伝えしたのは、「したいならすればいいじゃないですか」。


そもそも、なんでマスクをすることについてあれこれ言われなくてはならないのか、わたしにはわからないです。

たしかに3番目の海外、というか欧米でのマスクについてある意味タブーのようになっているのは知っていますし、わたしも街中でかけるということはよほどでなければしないですが、たとえば、飛行機の中では乾燥を防ぐために必ずします。

そのときに、隣の席が外国人のひとだった場合は、なんのためにこれをするか、日本においてのマスクは特別ではないこと等を説明するようにしています。


それに、欧米でも、ファッションとしてつけているひと、以前から結構いますよね。

一時期、アメリカの某有名ミュージシャンが、わたしの友人の服を気に入って衣装にしていましたが、友人はもう10年くらい前から自分のイラストをマスクにプリントしてイベントに出たりしてました。さすが!って思います。

マスクって、別に悪とか弱さとかそうしたジャッジが下されるものではないじゃないですか、単に習慣や文化の違いにすぎないですよね、特に海外に住んでいる日本人のひとが、マスクをする日本人に対して蔑んだり悪いことのように言うことがわたしには理解できないです。

むしろ、なんで知らない外国人のひとに説明していかないのかな、って。



話を戻しますが、いちばん大事なのは、まず自分をできるだけ安心させてあげることだと思うんです。

たとえマスクがコロナに有効であろうがなかろうが(まったく有効ではないとはいえないのでは?)、それで安心するなら、とりあえずしたらいいじゃないですか。


そして、なぜ自分がいましていることはなんなのか、何を恐れているのかをみてみる。

そのときに起こる思考、これは誰の考え、意見なのか、本当の自分はどう行動しようとしているのか。


ほんとに、全員にとっての正解ってない。

いろいろな思いを抱かれたこのマスク、中国に通販したら買ったものと一緒に、がんばってという旨を伝える拙い日本語の手紙とマスクが入っていたとか、中1女子がお年玉はたいて600枚のマスクを自作し寄付したとか、マスクの作り方をアップしたりわざわざ型紙をダウンロードできるようにするひとがいたり、昨日知ったニュースでは、スニーカーのニューバランスがマスクの生産を発表したりと、マスクがいろいろなものをつないでもいるじゃないですか、人と人を遮断する役目のマスクが!



最後にもう一つだけ書いておくと、

先月の頭くらいに、あるところから届いたメルマガに掲載されていた、コロナウィルスは危険ではないといういくつかの根拠、殊にインフルエンザのほうがひとがたくさん死んでいるからという見解。

そのときわたしも、たしかに! と思ったのですが、よく考えてみれば、その判断、その比較、ほんとに適切? と。


なぜなら、インフルエンザの歴史で最も古い記述は紀元前412年だそうです。その後スペイン風邪やら何やら大流行の時代が何度かあって、すでに数えきれない症例やエビデンスがあり、冬になったらワクチンを打つ、というのがある意味習慣のようになっているくらい認知されてるわけです。

でも、よくわからなかった時代には、戦争の終結を早めたという記述があるくらいたいへんだったのだと思うし、当時のひとびとにとっても不安だったんじゃないでしょうか。


いま起こっていることは、いまなんですよ。それに、実際に亡くなっているひと、感染経路も特定できないケース、これがどう収束していくのかもわからない状況の中、よく考えてみれば比較対象になり得ないものを参照して見解を出すということに、それってどうなのだろう? という疑問が起こるんです。


わたしは、危機感を持ちましょう、と言いたいのではないです。過信もまた然りです。

誰かの分析や見解は、あくまでもひとつの情報として参考にすればいいと思います。

どちらにしても、起こっている事実を事実のままに捉えなければ、自分にとっての本当のことってわからないと思うんですよ。



全員にとっての “正解” って、ほんとにないです。

なぜなら、あらゆるものには陰と陽があり、ひとにはそれぞれ個性があり、自分以外に自分はいない、唯一の存在としての生があるから。



さて、このテキストには、わたしの個人的な意見や思いも書かれています。

すべて鵜呑みにしたり、これをご自身の意見とせず、Ezuminはこう感じているのだな、として受け取ってくださいませ。


『マスク2枚』と聞いて、笑うことが全員にとっての “正解” なのではありません。

「反応」、そして「次」。

そこから世界が分岐していきます。



※追記

・マスクについて多少熱く書きましたけど、わたしはマスク礼賛というわけではないし、いまのところ外出は病院だけですが、タクシー含め、自分がしていることでほかのひとが安心する、という意味でもするようにしています。

何もしなくてもだいじょうぶだとか、わざわざ誇示する必要も意味もないですし、過信もしていないですし(とはいえ、それでもときどき家に忘れてしまうこともあります)。


・インフルエンザのワクチン、わたしは打ちませんし、勧めているわけでもないです。

ただ、毎年打つひともいるくらい身近なものだからこそ、大騒ぎするほどの事態にならないのであって、安全/危険という判断に対する比較対象にはならないという意味で書きました。


ワクチンについては、以前、あることがありました。機会があればいつか書こうと思います。


わざわざ書く必要もないと思っていたし長くなるので書きませんでしたが、

なるべく誤解を生まないために、追記しました。

また思いついたら追記します。