「ミイラ展」、個と全体、押入れとミイラが教えてくれたこと。



先月から少しずつ部屋の整理をはじめて、今月に入ってさらに加速、いまのところゴミ袋4〜5個分の諸々と、大きな衣装ケース2個と小さなケース1個分の服や着物、ストックしていた布を処分、これから紙類や本、雑貨などをやる予定です。


洋服や雑貨が大好きだし、仕事の関係もあってもともと荷物が多いので、年に1回、特に12月に限定せずに大々的な物捨てをやるため、今回服については衣装ケース1個分のつもりだったのですが、押入れの空いたスペースをじっと見ているうちに「押入れ空洞瞑想」というものを思いつき、それをやっていたらまだまだいけそうな気分になってきて、結果的に上の数になりました。

もしなかなか片づかないという方、とりあえずどっかざっくり片づけて、空いた空間をしばらく見つめながら、その広がりを味わってみてください。スペースがどんどん広がっていくイメージでもいいかもしれません。


これ、頭の中のおしゃべりが止まらないときにもいいと思います。

その場合は、頭をひとつの空間としてみて、ゆっくり呼吸をしながらそのまんまじーっとそのスペースを眺める感じ。

それが難しい場合は、押入れなど肉眼でみえる空洞の景色をそのまま頭の中に移動/シンクロ/オーバーラップ、なんでもいいですがイメージをして、同じく呼吸をしながら眺める。

というか、押入れの空洞みてるだけで頭も静かになるとおもいます、アイディアが湧いてきたりもするし。


あまりにも簡単でちょっとばかっぽいかもですが、日常の些細なことの中にもたくさんの生が在って、言ってみればそれはこの世界、宇宙というもののすべてがもれなく集約されている、知恵の宝庫なんですよ。

だから、ほんとはいろいろ全然難しくなく、そこにあるすべてのものからこたえをもらえる。


というか、その仕組みそのままになったらいいですね。

そういう意味でいえば、意識的になんでもかんでも捨てる必要はないし、そもそもそうした意識がなくなってくんじゃないですかね。



このお休みの期間、思うところありでマスターや天使などとチャネルしたり、意識レベルではコンタクトせずに暮らしていたんですけど(ガイドにはいつも通り、電車の席取りやスーパーなどで欲しいものの場所を聞いてます)、ほんとはそうした存在とあえてつながろうとする必要もないんですよね。

実際、虫でも植物でもマスターでも天使でも、個と認識すればそれぞれの性質が発生するためその情報も変わってくるわけですが、そういった意味では、得意分野はちがうけれどもうちの日日草(名前:ニチニッチー、やばいくらい咲く)も押入れもマスターも同じなんですよ(ざっくり言ってます)!


なんというか、あえて言葉にするなら、どんな些細なものも宇宙、神、愛、なんでもいいですけどそうしたもののあらわれであって、それを見出して相互に行ったり来たりしながら暮らすことが、人間のわたしにとってのスピリチュアルみたいです。シンプル。



で、片づけの合間、行ってきました「ミイラ展」。




一緒に行ったのは造形作家の友人で、彼女は干し首が好きでミイラはそれほどでもない(何故なのかは不明)と聞いていたものの、むかしミイラはお金持ちが収集して見世物にしたり、おみやげとして持ち帰ったりしていたなど説明をしてくれて、へーそうなんだ、やばいねと彼女の説明を聞きつつ鑑賞、普段、こうした展示のときはひとと行ってもそれぞれ自由に回ってあとで落ち合うのが常なのですが、今回はいっしょに感想などを述べ合いながら観ていきました。


平日の午後にも関わらず結構ひともいて、こどもからお年寄りまで年齢層も幅広く、特に女性が最前かぶりつきで観ている姿が多くみられて、ああみんなミイラが好きなんだなあと、なんというか、うれしかったです。


ミイラ自身もいろいろで、国によるちがいや湿地帯で発見されたミイラなど、はじめて知るミイラもいました。

日本のミイラもまた独特で、こどものころ、テレビでみた即身仏以外の自発的なミイラも今回はじめて知りました。


わたしはこうした展示、今回の場合はミイラ、つまりその方の出自や生きていたときの時間、ストーリーを知ろうとしない、というか、どこか個にかえしてしまうことに抵抗があるのか、あまり触れてはいけない領域のような気もしてリーディング的なことやアクセスなどはせず、ただ鑑賞するのですが、観れば観るほど不思議というか、いったいこれをどう捉えたらいいのだろうと非常に陳腐な言い方ですけど迷宮に入っていくばかりで、そしてたどり着くのはやはり「無」なんですよねえ、だからこそみんな文字通り穴が空くほどに見てしまう、見入ってしまうんじゃないかなって。


そう、生きていたひとの生としてみると、意味が出てきてしまうんですよね、なんというかそれは、ミイラというものとは対極にあるというか、展示物、というよりもミイラ=無名性というイメージにかかっているのかもしれない、と書いてみて、そうだとしてもそれが誤りなわけでもないし、そこが迷宮に入る理由のひとつなのかもしれない。


さらに言えばミイラのなり方にもよるんですよね、人工的なミイラと自然なミイラでは全然ちがってくる、けれどもそれは完全に “ストーリー” の作用であって、ミイラそれ自体とはまたちがうこと(いま本質、って書いたんですけど消しました。本質なんてないんだよね。。)、つまりやはり個にかえすか全体に帰すか。


というか、ミイラに限らずあるものをひとつの意味、イメージ、ストーリーを前提としてみるか否かというだけでその後の “反応” が変わるだけのこと、なんですよねえ。。だから正誤善悪が発生する。



このように、さまざまな発想を呼び起こしてくれるミイラ、同時に思考を止めぽかん、とさせてくれるミイラ、忘れていた大切な何かを思い出させてくれるミイラ、やっぱりわたしはミイラ、いいな、と思います。


これから観に行かれる方もいらっしゃるかもなのであまり多くは書きませんが、ミイラを前に何を思うのか感じるのか。

ひとは鏡と言いますが、ミイラは自分の何を映し出すのか映し出さないのか、もしも、ミイラ=気味の悪いもの、というイメージがあるとするなら、それ自体を取りはらってみるといいんじゃないですかね。

だって自分も死んでほっとけばミイラになる成分でできてるんだもんね。



と、だいぶ自分、戻ってきたなと感じます。

そして先週から個人セッション再開しました。

体調、まだ波がある&12月の折、バタバタしているのでゆっくりですが、ご案内していきますね。


というわけで、また。

押入れ空洞以外に、ミイラをみてぽかんとするミイラ瞑想もいいと思います^^