ポジティブな過去生、ポジティブな未来生<後編>



前回はポジティブな過去生について書きましたが、では未来生はどうなのか。


もうかなり昔になりますが、ポジティブな未来だけをみる、という方にお会いしたことがあります。

チャネリングなど目に見えないものをみる会、みたいな集まりに参加したときのこと。

自分のポジティブな未来をみてみようという流れになり、まずその方がみていって、その後、別の方がみることになったんです。


わたしはパートナーについてみてもらうことにして、どきどきしながら順番を待っていたのですが、その未来は、えーーまじで?? というような思いもよらないシチュエーションで、結構具体的だったにもかかわらず、どこかファンタジーの世界のようで、これ、ほんとに自分幸せなのかな、たしかに幸せそうにみえるけど、そもそも相手のタイプ全然ちがうし、、でもほんとうはこういう相手でこういう暮らしを求めてるのだろうか…と思いながら、しばらくそのイメージを自分なりにみていました。


すると別の参加者の方が、わたしがみえたのは全然ちがうひとです、しかも日本人じゃないし日本でもないです! と、相手の容姿や国籍、場所の様子などたしかに真逆で、同じくわたしは幸せそうなのですが、やっぱりタイプがちがうんだよなーでもほんとはそうなのだろうか…と思いながらみていました。


そして今度はわたしがポジティブな未来の方をみる番になり、未来ではなくいまのことがいいということで、現在の状況とそこから展開していく可能性のある領域についてフォーカスしていきました。



詳細は割愛しますが、なぜその方がポジティブな未来生だけをみるのか。

その背後にあるもの、感情や思いなどが上がってきてそれらをお伝えすると、ほんとうはしばらくこうしたこと(セッションやみえないものをみることなど)をやめたい、やめないまでもしばらく休みたいと思っている、とおっしゃったんです。


その方はとても素敵な家に住んでいらして、ご主人はスピリチュアル的なこととは対極にあるようなお仕事をされていましたがとても理解があるとのことで、お子さんと一緒に途中で挨拶に来られたりと理想的なご家族だなあという印象でした。


何よりご自身がとても穏やかなエネルギーの方で、ご家族を含めた環境は、まさにその方のあらわれそのまんま、という感じで、ご自分を自分以上に見せようとするわけでもなくそのようになっているというか、とにかくその在り方が素敵だなと思ったのです。

けれど、その方の背後には強い罪悪感と、同時にネガティブなものをみることへの恐怖があり、でもそれは、単に蓋をして、ポジティブなものだけをみていたいといった、わかりやすいものではありませんでした。



自分がなぜこのテーマで書こうと思ったかというと、前回の「ポジティブな過去生」についてが発端で、ネガティブなことにフォーカスし続けていくといつしか視点がすり替わっていく可能性があること、まさに自分がそこに陥りつつあったと気づいたからです。


自分と向き合っていくことはもちろん大切で、それって結局、自分にとって不要な何かに気づいていくことですよね。

そうしたものはだいたいにおいて見たくない部分、嫌な部分、つまりネガティブなもので、本当はいらないのに、それ自体を見たくないという感覚、思いがはたらくために蓋をしてしまうという仕組み。

いらないんだから手放してしまえばいいのだけど、まさにそこを見ることへの恐怖や抵抗が、それを余計に難しくしている。


それに、ショックなどの強い体験があれば、無意識に記憶が隠されることがあるため、自分にそういったものがあるなどとは思いもしないので、手放すも何もなく、なぜ自分はこんなに生きづらいのだろう…という疑問だけがあるというケースもある。



それはさておき。

その不要なものというのは、生きづらさや自分が望むことを阻む、ブロックとなっている性質、思考、感情などネガティブなもので、それを手放していけばらくになっていくわけですが(ざっくり言ってます)、あれもこれも、と、結局は自分のネガティブな部分ばかりにフォーカスしている状態なんですよね。


「これがあるから自分はうまくいかない」。

たしかにそう、でも実際にはこれもまた思い込みで、「これがあってもうまくいく」と思い込んでもいいし、なんなら「これがあるからうまくいく」でもいいわけなんですよ。


けれども、手放すべきネガティブな部分を探すようになって、そればかりに目を向けていくことで、いつしかこれがあるから自分はだめなのだと、自分=だめ、と無意識のうちに自らをジャッジして自己評価を下げてしまう、しかも気づいていないのでどんどん苦しくなったり、なんらかのかたちで人間関係や生活の何か、生きづらさがましていったりする。


ほんとうは、手放したり調整する必要のないポジティブな面だって全然あるはずなのに(いやむしろそっちのほうが多いでしょ!)、それよりネガティブなものをどうにかしなけりゃ意味ないよ! と、気づけば今度はポジティブなほうをみなくなっている。


というか、ポジティブなほう、自分の望むほうへ向かうためのアイディアもインスピレーションも湧かなくなってしまう、というより、そちらへ目を向けるという発想や、気力のようなものがなくなってしまうんですよね。



と、別のトピックにひろがりつつあるので、このことについてはまたの機会に、と思いますが、これは自分がこのお休みの期間、自分の体調不良や起こってきたできごとをみていくなかで、先日の「ポジティブな過去生」をきっかけに気づいたあれこれです(ひとにはさんざん言ってるのにね 笑)。



過去。未来。

ひとは「いま」ではなくどちらかに意識が向いているとよく言われますが、いま自分がいるのとはちがう時空間としてただみる、映画をみるように経験するだけであれば特に問題もないと思うんです。

でもそこにポジティブ/ネガティブという価値観、ジャッジを付与することによって視点、経験がまったく変わってしまうことがある。


とはいえ、この肉体をもったわたしたちがそう捉えてしまうのも当然で、ネガティブはポジティブを支え、ポジティブもまたネガティブを支えている、それが地球、この次元。

だから、どちらかに傾けばバランスが崩れるのもまた当然のことで、それがいいとか悪いとか、それこそ二極二元ではかれるものじゃないんですよね。



ちなみに、先ほど書いたわたしの真逆な2つの未来生、クラスなどではお伝えしていますが、すべてのひとが同じ情報を受け取るわけではないので、どちらもわたしのポジティブな未来としての時空間なのだと思います(でもやっぱりしっくりこないので、この肉体にはあらわれてこないと思う&わたし自身が、自分の未来生というものにあまり興味がないみたいです)。


これは過去生も同じ。

連続した時間、という概念をはずしてみたら、起こっていること、そのストーリー自体が多層構造になっている、というか、この現実と思っている時空間も。


ひとそれぞれの体験がちがうように、たとえ同じ時空間を共有していたひと同士のストーリーであっても、同じではないし、正解というものはないです。

そう、このことに限りませんが、“正しさ” を求めたら、それは善悪を生み完全に二元の罠に入ってしまう。正しさは判断なので、それぞれ違うからそもそも基準にはなり得ないんですね。



ためしに、多層構造の視点でいま目の前、自分が存在していると感じている “この現実” をみてみると、全然ちがう感覚になります^^

頭がくらくらするかもなので、体験してみたい方は椅子にすわったり、自分の部屋など安全な場所でやってみてください。



というわけで、また!