痛みはどこにあるのか? からだのない世界



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先日、どうしても観たいイベントがあって「あいち芸術祭」に行ってきたのですが、いやーイベントはもちろんのこと、素晴らしい展示群。


映画もそうなんですけど、予告編も基本観ないし、前情報をほとんど入れずに観るんですね、先入観で勝手な期待が入ってそれに合ってないと評価が下がる、あるいはいい意味で裏切られたということで上がったりというのもありますけど、

結局自分のイメージ次第で見方が変わってしまう、つまりその作品以外の不要なものが入ってしまって直で体験することができなくなってしまうから。


なので、誰の展示があるのかもほぼ知らない感じで行ったのもよかったと思う、にしてもど頭の河原温に30分近くつかってしまって、結局8時間くらい同じ会場にいたという(笑)、しかも休憩なしのノンストップで。


芸術祭自体のタイトル「STILL ALIVE」の通り、生と時間、その概念、というか刻む、刻まれる、刻まれた、という感覚が自分としてはとても強いのだけど、まあとにもかくにもパンチのある展示ばかりでした。


ほんと気づけば口をぽっかり開けたまま立ち止まること多々、あいトリ時代の波紋について今回なんらかのサジェッションがあったのかどうかはわかりませんが、それよりも作品自体の強度、作家の生き様というか、むきだしの生というか、

なんというんでしょう、ある種の生の執念みたいなものをそこここに感じたりもしました。



もうほぼ全部が目なのか脳なのかに焼きついている感じなのですが、

なかでも幻肢痛とトラウマに関する映像作品、なくした腕や足などに痛みやかゆみが起こるという話は聞いたことがありますが、

実際、臨床にかかわっている医師の話や当事者自らの証言、そして映像はリアリティなどという言葉であらわすのは非常にたやすく、それどころかむしろ的をはずれているような気がするし、わかりやすい生々しさなどともまたちがう種類のものだし、

なんでしょうね、いわゆるドキュメンタリーを観る感覚ではない感触なのは、それが作品だからなのでしょうか、とにかく見入ってしまいました。



そして、その直後にVRのイベントだったのですが、これがまたすごくて、

それまで肉眼で観ていた2Dの映像からVRの視界に変化した途端、ズドン、と音がしたかのように目の前が変わってしまい(助走はあったにしても)、つまり体感そのものがもうここにはない感じ、

周囲が突然どこかわからない星、あるいは地球の果てなのか異次元の空間なのか、

とにかくまったくわからない場所に自分があれは物理的に、といっていい感覚をともなっていきなり連れ去られてしまい、

周囲は岩や小さな光があって、手を伸ばしてそれに触れようとしてももちろん触れられるわけはないのですが、

何より衝撃だったのが、自分がいくら手を伸ばそうが足を蹴り出そうが、その動作をたしかに行っているのに見えない、自分の手も足もつまり自分のからだが一切視界には現れてこないのです。


そのとき、直前に観ていた幻肢痛の映像作品を思い出したんです、その足はもう存在していないのにたしかに痛みがそこにあるということ。

自分のからだ、手足は自分が思っている通りに動かされているはずなのに、目でみること、確かめることができない。

幻肢痛とはちがうけれど、VR体験中の自分は、言ってみれば目だけになってしまっていたんですね。



これは以前、覚醒された方のヨガのクラスに参加したときと、エジプトでの体験、その後も何度かありましたがそのときと同じで、

視界は動くのだけれど、自分のからだはない、目だけになっている、というのもほんとは正確ではなくて、視界だけがある、「みる、みている」ということだけが起こっているという感覚。



と、書いていると止まらなくなるのでこのへんで締めていきますが、

痛みって、ほんとうはどこにあるのか。

というか、からだというのはほんとうはどのように存在しているのか。

そういった意味では物理的なすべてのものは、ほんとうはどう位置づけられているのか。



さらにいま思ったのは、ヨガのときには視界さえなく、ただ意識だけがあるという状態。

幻肢痛の痛みのように、意識、というより思考だけが宙に浮いたようにからだがないことにとまどい、さまよっているような感覚。



すべては幻想、と言い切ってしまうのはあまりにも乱暴だけれど、

やはりすべてあるけど何もない、

つまりそれぞれの層というか世界線というか周波数帯ともまたちがうなんらかの領域というしかないものが(というか時間という概念の介入があるからこそいくつもいくつも発生し続ける何か)、

それぞれ重なり合って(という表現が適切なのかさえ疑問だけれどそうたとえるしかないのもとりあえずたぶん事実)ある、というしかないのだなと思えます。



ほんとうにほんとうにほんとうに、

何ひとつ定まっているものなどないんだなと思います。

痛みがどこにあるのかわからないのなら、

この思考としての苦しみも、いったいどこにあるのか。



ほんとうに変化を望むのなら、まばたき一回分のコミットで、

すべての景色が変わる、

というか、

変化した景色をみることができるんだと思います。



というわけで、また。

今月の呼吸のクラス、ちょっとからだを動かしてみようかな、と考えています。



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