リーディングのことをもう少し。
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今日はいつかやらなければならない…でもやりたくない…なぜならものすごい面倒だから! という理由で数年単位で先送りにしていた作業を9割終えてぐったりな感じ。
正直達成感とかない、よろこびもない、あと1割残っているから、というだけでなく燃え尽きたからなのでしょう、シルクスクリーンでプリントしていたんですけど油性インクをつかったのでもう頭がくらくらだし、
道具の片づけ含め5時間半くらいかかりました、最初は2時間くらいで終わるかな、と完全に舐めてましたね。
その間、気づけばずっと立ちっぱなしで結構体力あるなと思ったりもしましたけれども集中ですよね、集中してるとどこかぶつけても痛みとか感じないですもんね、それはそれでこわいな、と思いました。
いま、すごい肩とか腰が痛いです^^
集中することって良いこととされているイメージがあるんですけど、こうなるとどうなんですかね、ここで一個気づきを入れたいところですが、
肩腰が痛くなったのはもともと嫌な作業だったから、かもしれないし、最近ちょっと疲れが出てきていた、からかもしれないし、というか5時間立ちっぱなしってそりゃからだ痛くなるよね、だし、
じゃあなぜそこまで集中してしまうのか。
やっぱり脳内分泌物質の問題ですかね。
と、自分はほんとに些細な疑問を探っていく癖がこどものころからありますね。
これも自分が何かを「みること」と関わっていると感じています。
で、先日リーディングのことについて書いたんですけど、自分、結構感情的になってたな、観察も気づきもないほどに(笑)、とあとから気づきました。
それはなぜだろうかとみてみると、いままでもリーディングについてのご質問をいただくことがあって、直接返信したほうがいい内容については返信をして、そのほかはそのうちブログで、とお伝えしていたのですが、
ご自身もリーディングを勉強しつつ、ある方にみてもらったときに、先日書いたような最初にキーワードをいくつか言われて、その後、あるやり方に沿ってそのキーワードをつないでひとつのこたえを出されたのだけど、自分がキーワードだけを聞いたときに受けた印象とはちょっとちがっていたとのこと。
それを伝えると、自分の意見を否定されるかたちになり、さらに伝えられたことについて、自分で受け取ったヴィジョンがあったものの、それについてはスルーされてしまったとのことで、こんな場合は何を信じたらいいのかというご質問があったのでした(ご本人の許可はいただいています)。
で、その話を拝見して、自分のことのように腹が立ってしまい、同時に、自分もいままで同じような体験があったことを思い出してさらに感情が湧き起こってきたんですね。
それがちょうど最近、車のナンバーにはまっていたこともあって(自分もゾロ目来ました、とメールくださった方がいてうれしいです^^)、リーディングについてちょっと書いてみようと思い、
まずは自分をみて、ああこのことでまだ怒りがあるのだなあ、と、ニュートラルにとらえていたつもりでしたが、
やっぱりまだ残っていることに気づきました。
そもそもわたしは、何かを決めつけられることがほんとに嫌いみたいですね。
それは、みえてしまうという性質が関連していることが大きいかもしれないです。
言葉って、共通の理解にとても役立ちますけど、言葉はそのままではけしてないですもんね。
それともうひとつは、リーディングというものについての捉え方のこと。
たとえば以前、ハイアーセルフについて結局なんなのか、自分なりに捉えたいと思い、たまたまそこに特化したチャネリングのセミナーがあったので参加してみたんですけど、
それは外国人のチャネラーの方で、最初にチャネリングとリーディングのちがいについての説明があり、まず「サイキック・リーディングというのは占いと同じです。だからあてになりません」と言い切ったんですよね。
これがかなり衝撃で、リーディングはおろか、占いというものについての言い切りもすごいなと、なぜそうきっぱり断言できるのかと、すると、自分が過去にそういうリーディングをされたからだと。
リーディングもチャネリングもサイキックも、お椀も器も木も樹も結局、共通認識というか、これはこういうもの、と定義/名付けることによって理解し合うためのそれ、ほかのあれこれと区別するためのカテゴライズですよね、
だからほんとはどうでもいいと思うんですよ、でも定義はどうあれ、そのチャネラーの方の言い切りって、個人的な感想じゃないですか、見解とさえ言えないと思ったんですよね。
なぜなら、自分の経験、しかもたった一度、もしくは数回の経験でこれはこういうもの、と自分が決定したものなわけだから。
万国共通のことでも世界基準でもなく、あくまでもその方の、その経験での感想であって。
そしてもっとすごい場合、自分が経験さえしていない、ほかの誰かの言ったことをそういうものだと定義してしまったりする。
以前、自分があるエリアに仕事に行ったときにみつけたいい感じの食堂があって、その話をある知人にしたところ、そのエリアは霊がいるから行っちゃだめなんだよ、というんです。なぜ? と聞くと、知り合いの霊能者が言ってた、と。
それを聞いて、なんかざっくりしてるなーという印象で、そのエリアのどのあたりなのか、そのエリアにもれなくびっしりいるのか、そこに居住しているひとは全員霊障にあってるのか、訪れたらあってしまうのか、どういう見方でそう言っているのか、まったくわからないんですね。
あと、よくあるのは、古着とかアンティークのものには霊がついているので買ってはいけない、とか。
たしかにそうした傾向はあるかもしれないけれど、すべてではないし、新品のものだって残留思念があるものはあるし、電車やバスやタクシーのシートやカフェ、レストランの席、テーブルだってそう、
そんなこと言ってたらどこにも行けないし、なんにも買えない。。
こういう話って、すごくあると思うんですよ、こうしたスピリチュアルのこと以外にも。
じゃあどうするのかといえば、「いま、ここで、ほんとうに起こっているのはなんなのか」に気づいていることだと思うんですよね。
つまり、自分で感じること。誰の言葉や情報も傍において、感覚をフルにして感じてみること。
ここで「自分には感覚抑圧があるから」という方もいるかもしれないですし、実際、だからみることや感じることができないのでクラスに参加したいけどできない、というメールもときどきいただくんですけれども、
まったく何も感じてないですか? ほんとに? と思うんです。
さっきのそのエリアに霊、というのと同じで、ざっくりしてない? って。
もっといえば、まったく自分を抑圧していないひとって、どのくらいいるんでしょう。
わたしだって抑圧してる部分、ありますよ、まだ。
高校生のころ、一時期ですが、声を出すことができなくなったこともありますし。
でも、いろんなこと感じてた。いまも感じてる。
窓を開けているから、金木犀の香りが部屋に漂っていてここちいいと感じているし、さっき飲み干したグラスからアップルジュースの甘い香りも少ししている、虫の声が聞こえてる。
昼間は湿度があってちょっとじめっとしてたけど、いまは裸足で足先が少し冷えてること、肩と腰に痛みがあって、そしてこれを書いている姿勢が、著しくよくない(笑)と、感じている。
みえることと感じること、そして感覚の抑圧、関連している部分、もちろんあります。
だからといってすべての感覚が閉ざされてるわけではない、でしょ?
調べてみるといいと思います、自分のこと、もっとよくみてみる。
みる、って、つらいことや苦しい部分の話だけじゃない、というか、そういう見方ではないとわたしは思っています、というか、そうではない見方でみるんです。
いろんな見方がある。そこも決めてしまわないでほしいんです。
件のキーワードについてのメールをくださった方には、ご自分の感覚を信用したらいいと思います、とお伝えしました。
今回のことで自分が思ったのは、結局、みることって、気づくことなんだな、ということ。
そこにあるもの、それは感情も感覚も思いも思考も願いも、それも自分のそれ、だけではなくほかのひと、存在もすべて。
アセンデッド・マスターなどの存在についても、同じなんだと思うんです。
このことについては、また機会があれば書いてみようかなと思っていますが、否定してるわけでは全然ないですよ、
だってこどものころからいつもお話しとかしてくれたおじいとかがいるわけで(笑)、“わたし” にとって、日常ですから^^
ただ、じゃあ、ガイドでもマスターでもなく自分の思いは?
そう思うんです。
と、いろいろ書いてますが、これもマインドです。
“わたし” の旅、というやつなんでしょうかね^^
メールくださった方、そのほかクラスでのご感想やご質問くださった方、ありがとうございます!
返信ほぼできませんが、すごく参考になりますし、共感すること多々ですし、
ほんとにわたし自身の気づきになっています、ほんとにありがとうございます^^
みることといま自分がやっていること、呼吸や瞑想などがどうつながっているのかあまりわかっていなかったんですけど、理解しはじめた気がしています。
というわけで、また書こうと思います。
長々とありがとうございます、おやすみなさい^^
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