6月の振り返り、目でみえるもの、みえないもの、限りのない視点。



わーもう6月も終わるんですね。。

今週、月曜日に今月のクラスが終わってから、新しいセッションでお配りしようと考えているテキストを日々黙々と書いていたらもう金曜日、でびっくりしています。


自分的には今月もいろいろありましたが(笑)、

ほんとに起こることを受け容れて、ただこう在りたいと存在してたらそれでいいんだなーと日々世界、そして自分に対する信頼が増す日々です。



さて、6月のクラスのご感想をいただきましたので、ご紹介しつつ振り返ってみようと思います。

Rさんからのご感想です。



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3回を通し、奥底に持っている根深い問題の階段を一段一段降りながら、記憶や意識を確認しながらの日々でした。魂のトラウマとも言える深い深いものでした。

本当に一度立ち止まり、私がそれに対し、どう感じているかを見るだけで問題がハラハラと舞い上がっていきます。


クラスのときは、気付きの度(顕在意識でも潜在意識でも)に涙がポロポロと流れ鼻で呼吸ができず、でも集中しているので、どう息をすればいいんだっけ?と一瞬わからなくなり、

ついつい苦しぃ。となっています、笑!


2枚の画像をみるワークはそれぞれの方の視点があると改めて気付かされ、それは立ち位置、意識、自分が見たい世界を見ていることが参加者の皆さんの声を通じてわかり、

様々な人の立ち位置から見える景色はこれほど違うのか、と驚きました。

そして私が望んでいる世界を私はみていてることも。


クラス後の補足メールで書かれていた「写真を見て恐れが湧き上がること」に関して

そういえば、その感覚を追いかけて見ようとしなかったけど、2枚目の写真の時にうっすらと怖い感覚があって

何か見たくないもののように感じ、一瞬、直視できない感覚になりました。


「無機質でただ整列しているだけ。自分の意思なく、世界を構成する無機質な一部として命じられたことだけをやっている」

ここも私のなかのある部分が反応したようです。

じっくりとそのエナジーを見つめ、動画を再度みながら手放していこうとおもいます。



クラスに初めて参加したときは、この自分ではダメ、まだまだできていない、その意識でしか考えられなくなっている状態でした。

3回を通し、私の受け取っている感覚を信頼していこう、間違いも含め、その間違いが導く解放がある、と思えるようになりました。

先週、Ezumiさんがお話しされていた、いいことを言おうとするその奥にあるものはいったいなんなのか、

ということを見つめてみると、出てくる、出てくる。


お話しされているときに、どれほどこちらがぽか〜んという表情をしていようが、全力で話してくれるので嬉しいです。

思考の理解や言葉の落とし所を探したいわけではなく、そのエネルギーを受け取り、自分のなかをみていく足掛かりをいただいているんだなって。

様々な角度で、様々な段階で剥がれ落ちてきます。



私はなんのスピリチュアルも学んだこともなく、Ezumiさんのリーディングになんの興味も湧かなかったのですが

でも呼吸のクラスは、わぁ参加したい、と思いました。

クラスに参加して自分の内側の感覚を信頼していく上で、呼吸は私が望んでいる手段だったとおもいました。


私の現実を信頼したい、ただ現実に向き合い、現実の些細なことの一つ一つに胸を震わせ生き抜きたい。

スピリチュアルな意味づけなんて必要なく、スピリチュアルを求めて現実と乖離するなんて馬鹿な話だ。



来月も楽しみにしています!

いつも次はどんなことに気づけるのか、どんな話をしてくれるのか、その話に私のどの部分が反応するのか、

毎週月曜日になるのが、楽しみで楽しみでたまりません。



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ここのところ、スケジュールの都合もあって、土曜日クラスは2回、平日クラスは3回とさせていただいていて、

今月の平日クラスの最終週は2枚の画像をみて感じること、気づくことなど、「視点」についてのワークをやってみました。


6月のテーマは『New Perspective〜新しいルーティーン』、いままでとはちがう視点でみてみる、という提案。

パースペクティブ、というとちょっとかっこいい感じがするかもですが、

表と裏、内と外、もっといえば白と黒といったある視点とその反対、という二つの側面ではなく、まさに面ではない透視図でみたときのように、

もっともっといろいろな視点があることに気づく、思い出していただけたらな、という意味でそんなタイトルにしてみました。


実際に行ってみると、全員同じ画像をみているわけですから、もちろん共通の視点もありつつ、実際に経験した思い出のようなその方のパーソナルなことや、イメージ、また肉眼、五感外の視点やトラウマのような心理的なものごとの投影など、

さまざまな視点や気づき、そして画像それ自体とは関連のしない思考など、いろいろ出てきてやっぱり面白いなあと思いました。


たとえば何かをみて、そのひとが感じた感覚は、正しいも間違いもないですよね、そう感じるのはおかしいとか、こう感じることが正解だとか、いったい誰の価値観なのか。


けれど、わたしたちはそうしたどこの誰の正解なのかもわからないジャッジをくだされ続けて「間違っている」というほんとに“的外れ”な烙印を押されて傷ついたり、自分はだめなのだと思い込んだり、いつしか自分の感覚がわからなくなってしまったり。

ほんとにくだらねえなあと思う。


と、怒りがわいてきましたが(笑)、

わたしはものごとを決めつけられるのがほんとに嫌いなんですよね、せっまい価値観に閉じ込めないでほしいとずっと思ってきましたね、ひとの決めた正解、なぜそれが正しいとか間違っているといえてしまうのか、ほんとに疑問だった。


それは、自分が肉眼以外のものもみているという性質に起因しているのかもしれない、といま思いましたが、

自分は肉眼でみえるものと、それ以外をたぶんそんなに分けていないんだと思います。

だからこそ、より思うのかなって。

世界、そんなにちっちゃくまとまってなくね? 白と黒だけじゃなくね? って。


でも、これはわたし独自の性質とか能力なんかではなく、みんながそもそもそうした視点をもっている、というかそなわっている機能なんですよね。

なんかいろいろくっつけずにただあるものをそのままにみたら、勝手にみえてきてしまうんですよ、構えたり分けたりしなければ。



実際、今回のクラスでも、五感外の視点でみている方がいらっしゃいました。けれどご自身はそこには気づいていないようで、けれどそれでいいんだと思うんですよ、むしろ分け隔てなく自然。だって、みえるがままにみているだけだから。

「目にみえないものは特別」という“判断” “観念” “価値観” “思考”を持ち込むから、むしろみえなくなるんだと思う。


そして想像力。

ある画像が、実際のそれとは全然ちがうものとして感じる視点。

ここにはその方ご自身の感覚があらわれてきて素敵だなと思うんですよね、それがそのものじゃないからこそ、“まだみたことのない何か”を生む発露となる。



そういえば以前、わたしがあるものを真正面から撮った写真について「普通は真正面から撮らない、横から撮るもの」と言われたことがあってきょとん、だったんですけれども、

普通ってどのあたりの普通なのだろう、しかもなぜひとつの角度から撮ることが正解なのか、まったくわかりませんでした。


いちおう自分は美術の学校に通っていて写真の授業も受けましたが、この被写体はこの角度から撮ることが正解と、教わった記憶はないです。


もちろん、その角度から撮る意味、有効性、表現の話はありますが、

でも、正解がそれしかなかったら、アートってなんなんでしょう。



いろいろな視点がありそのことでまさに眼から鱗、新たな視点を得て感動したり感銘を受けたり、わたしたちの可能性がより開かれていく感覚、希望やある意味においての自己肯定、

だからわくわくするんじゃないのかなって思うんですよね。


そして、それはアートだけでなく、役割としてのスピリチュアルというものでもあるんじゃないかとわたしは思う。



と、わたしのアートやスピリチュアル論はさておき、

Rさん、ありがとうございました!

今後もどんどんご自身をみて、まだみえていないご自身を発見されていってくださいませ!



というわけで、来月はたぶん「つながること」についてをやってみようかなと思っていますがまだわかりません!

スケジュール含め、また後日お知らせしますね。



ではでは、あっという間に上半期も終わりますが、

と言いつつまあ何半期でもいいですよね、自分を生きていたら間違いない。

楽しんで☆