5月の振り返り・2(改定)分け隔てること。



***6月の呼吸のクラスのスケジュール出ています!



※先日一度アップしたポストですが、思うところがあり後半を先ほど別の視点で書き換えていますので、時間のズレ、ご容赦ください。



今日も午後、雨が上がってからずっとベランダにいますが、

今日は全然仕事がはかどりませんでした。ここちよすぎて。

いまもいい風が吹いていて、たまらんです。


空間のワークのせいかどうかわかりませんが、最近、特に植物の世話をしていると、自分と植物、そしてベランダの風景というか、自分のまわりのものとの差がなくなっていくというか、

すべてが等質に感じられてくることがあります。


すると、ほんとうに特に何もいらないのだなあというか、何かを求めるとか手放す、ということ自体の意味がなくなるというような。

いや、そのときはそんなことさえ思うということもなくて、そのときの感覚をあとから言葉にすれば、なんですけども。

そして、いまはこうして言葉をつらねています。


風のここちよさを味わって、穏やかさや夜のやさしさを感じている自分。

さて、先日に引き続き、5月の振り返りを。

Yさんからのご感想をご紹介しつつ、ちょっと書いてみようと思います。



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今回のワークも面白かったです。

自分を分解し、また再構成したような感覚。

自分という輪郭がなくなっていくのを感じた時にどこかしらほっとした私でした。


空間との境目がなくなったとき、もう自分を特別なものとして他から切り分けなくても良いのだとふと思ったら涙が出るくらい開放感がありました。

それだけいつも張り詰めていたのですね…そして自分がなくなった、と感じている自分という視点もありました。


以前のメールで脱皮と書いた気がしますが、皮がなくなるかもしれないくらいです😅

ありがとうございました。


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呼吸のクラスでは毎回いろいろなことをやりますが、自分ではこまかいことは決めず、やりながらだったり、やり終わったあとだったり、

もっといえばご参加の方のシェアリングのときに、そのテーマやワークの理由や意味がわかってくることがほとんどなんですね。


意味ってほんとに後付け、というか別の言い方をすればこのことを理解するためにこんなことをやった、という具合にたまごが先かにわとりが先か、で、これもまた“時間”に関係してますね。


特に今回のワークについては、五感外のことをやってみているので、この三次元の論理や五感で捉えたら全然ちがったものになってしまう、“解釈” ではないんですね。


感じることと解釈することは当然ですがまったくちがって、

解釈は体験を脚色したり、操作してしまうことにもなりかねず、もう別のものになってしまいます。これはリーディングにもいえることなのですが。


つまり、こんな意味なのではないか、と、解釈することによって、ストーリーになってしまう、頭でつくってしまうんですね。

これはもう、体験とは別のものですよね。感覚でさえない。

ほんとうに起こっていることが失われてしまう。




今回の空間のワークは、いってみれば非日常的な不思議な体験として捉えられると思うのですが、もしもそんな体験ができた自分すごい、特別! と、判断/評価するとしたら、

このワークはまったく意味をなさなくなってしまうんです。

なぜなら、このワークは自分の消失と同時にひとつであることを体感するものだからです(と、文章にした時点で本質とずれてしまいますがご理解を!)。



以前、自分がこの空間のワークに似たワークをしたときに、左半身だけがなくなってしまった、と感じたことがありました。

このからだがなくなってしまう、周囲とひとつになってしまうという感覚、

けれどこれは本来ひとつであることに気づくこと。


この捉え方の順番で、同じ体験であってもマインドが別の解釈をはじめたら、そこでもう変わってしまう。

だから、ただ経験すること、感じることが大切なんですよね、頭はすぐにストーリーに入りたがるから。


このワークをやってみようと思ったのは、いちおうこのからだと周囲がひとつである感覚をちょっとでも体感していただけたらいいな、という思いがありましたが、

ではそう感じることが “できたら” クリア、ではないんですね。

これを行うことによって、自分が何を感じて、何に気づいているか、それだけなんです。


Yさんがこのワークを行ったことで、あくまでもわたしが素晴らしいなと感じたことは、からだ消えてよかった、ではなくて、そのことによってほっとされたこと、もう自分を特別なものとして分けなくても良いという気づき、ゆるしと言ってもいいかもしれませんが、開放感を感じられたこと。


体験は、なんでもいいんですよ、別に不思議、みたいなことでは全然なくて、どこからでも何からでも気づくことが “できる”。


自分のことでいえば、クラスではお話ししていますが、いまあるパン屋さんでパンを買うことによって巻き起こるあれこれで、ものすごいたくさんの気づきをもらっています(笑)。

ただパンを買いに行くだけなのに瞑想をして自分をニュートラルな状態にもっていったり、そこまでしないと興奮や不安やさまざまな感情に惑わされてパン屋に行けないんですね、パンですよ? ただパンを買いに行くだけなのに(笑)。


おかげで最近はもう、そこまですることなく、“自分を取り戻して” 買いに行くことができるようになり、するとパン屋さんの景色が変わるんですね。

ほんとに、何からでも大袈裟にいえば生、自分でいることのよろこびに気づける、世界のやさしさ、不思議さ、素晴らしさを知ることができる。



楽しいと感じることばかりではもちろんなく、パン屋にしかられてものすごく落ち込んだりもするし(笑)、ちょいちょい腹も立てます。

けれど世界はほんとに面白く素敵だなとわたしは思ってしまうんですね。


それでたぶん、植物も机もパンも誰かもみんな同じ、経験する/されるひとつの場のメンバーであって、

ちがう姿だけで同じものでできていて、

ばらばらだけどつながり合っていると感じているからかもしれないです。

マットレスにも普通に話しかけてますしね(笑)。

ばかみたいにみえるかもですが、もうこどものころからずっとそうなんです、これが自分の在り方なんでしょうね。



自分は野菜とはちがう、

自分は虫とはちがう、

自分はPCとはちがう、

自分は建物とはちがう、

自分は雪とはちがう、

自分はたんすとはちがう、

自分は犬とはちがう、

自分は山とはちがう、

自分はほかのひととはちがう、

自分はからだとはちがう、

自分は思考とはちがう、

自分は、



自分と何かを分け隔てること、

自分と何かは同じであること。


わたしたちは、ほんとうに多層な矛盾、パラドックスに生きてますね。

けれど矛盾、パラドックスと捉えるということは、

本来はすべてうまく“割り切れる” という思考に支えられているからなんですよね(笑)。

二元性、

これもまた時間。


このちっぽけな“頭” では到底“解釈できない”、

それが世界、宇宙、神、と呼ばれるものかもしれません。

そこでは“整合性”も塵のようなものなのかもです^^


と、先日アップしたポスト、後半を別の視点で書き直してみました。

いろいろな視点があることで、そこでみえる風景が当然変わるように、自分の意識もどんどん変化していて、

正直なところ、何かを固定して書くことが、最近ちょっと難しくなっています。

こう思ったそばから、それはどの視点での思い? という問いが起こり、

すると、あ、ここじゃないかも、となり。


けれど、書いたそばからすべて去っていきます。

なんだか、こうしてテキストを書いて残しておく必要もない気もしてきました(笑)。

とりあえず残しますが。



とにもかくにもYさん、いつもたくさんの気づき、ご感想をありがとうございます!

シェアのおかげで、今回は特にわたしもいつも以上に立ち止まり、また新たな視点でものをみることができています。



きのうから 6月のクラス がはじまっています。頭を締め上げて、ひさびさに資料をつくったりしました(そんなにすごいやつじゃないです笑)。

今月はどんな気づき、発見があるのでしょうか。。

すでにとても楽しんでいます。



それでは、また!

立ち止まり、みえていないご自分をたくさん発見する一ヶ月でありますように☆